見出し画像

「わたしが死んでもわたしはわたし」 キクチコウヘイ

 死んでも友達だよね、と言う。
 死んでも友達だよ、と応える。
 けっしておおげさに言っているわけじゃない。わたしたちは本気で、真剣に、死んだあとのことを考えている。大人たちなんかよりもきっと、ずっと。

 死ぬまでに、やるべきことはたくさんある。なるべく毎日学校に行って、ありふれたオリジナルのあいさつをして、授業中にメッセージを交わして笑い、昼休みは食べるよりもしゃべって、デオドラントが切れたら借りて、ぬりすぎたハンドクリームをおすそわけして、だれにも言わないでねって言って、親には見せない顔を寄せあう。
 若者がやるべきこと、と掲げてみると社会はすぐ、いわゆる政治的なことを期待するけれど、わたしたちにできるのはべつに、投票やロビイングばかりじゃない。それとおなじくらい、というか、むしろそれ以前に、あたりまえの日常をちゃんとこなしていくことが、しあわせなネクストライフには大事。
 部活も良い。単に競技を極めるだけなら、仮想対者(ゴースト)を点ければ事足りる。でもプロをめざすわけでもないわたしたちにとって、肝心なのは成績じゃない。同世代の仲間たちと、経験を共有することに意味がある。ときにけんかして傷つけあっても、苦楽を共にし、おなじ目標に向かっていくうちに、その彼/彼女にしか語れない「わたし」というものができてくる。おたがいの魂のかたちを知る。そういう関係が築けてやっと、わたしたちは幽霊になれる。

 わたしたちは死んでも生きたい。
 ちょっと昔なら、単なる絵空事だった願望。それがいまや、生前のパーソナルデータと視覚拡張デバイスさえあれば、だれでも新しい命を手に入れられる。親しいひとたちの前に現れる、ARの幽霊として。もちろん生データだけじゃ不完全だから、親しいひとたちが編集者になって、細かいパラメータを調整する。いらない情報を削ぎ落として、できるだけ「本人」を想起させる振る舞いを選択し、組みあわせる。口数、好きな話題、褒められたときのしぐさ、あいづちのうちかた、エトセトラエトセトラ。そのひとの「ほんとうの」個性を構成すると思われる情報群。
 いまのところ、編集者は原則として家族・親戚に限られている。この国において「親しいひと」とは、血縁・異性愛で結ばれた伝統的な家族とほぼイコールだから。
 だけど、ひとは家庭だけで育つわけじゃない。親が最悪な友達なんて珍しくないし、いわゆる「普通の家庭」でも、家族と共有していないことなんかいくらでもある。それをわたしたちは、身をもってよく知っている。

 2か月前、友達が死んだ。ミユ。バスケ部の練習中に心臓発作で、冗談みたいに突然だった。生きていたらいまごろは、新副部長になっていたはずだ。
 49日が過ぎ、泣かずにミユの話ができるようになった頃、仲の良かったグループでミユの家に行くことになった。AR幽霊(「親霊」と呼ぶべきだ、みたいな運動がすこし前に起きたけれど、色々あって公式の名前はまだ定まってない)は、もうそんなに珍しいものでもないけれど、投影する時間と場所の制限はいまもまだ続いている。遺族が霊依存症になって、社会生活を放棄してしまうのではないかとの懸念はなかなか消えない。1日30分限定の地縛霊、それが現代的幽霊のスタンダードだ。わたしたちはマックで時間をつぶし、21時を過ぎた頃、学校からほど近い家のインターホンを鳴らした。
 迎えてくれたミユのお母さんは、前会ったときよりも肌が白くなっていた。優しく微笑んだ目の下はすこしメイクの感じがちがって、クマを隠しているのだとわかる。なんとなく声を潜めてあいさつし、スリッパに履き替えて二階へ上がる途中、お母さんは何度もくりかえし、ありがとうね、とつぶやいた。
 ミユの部屋に入ると、お父さんがすでに準備してくれていた。何度か来たことのある部屋は家具も物もそのまま残されていて、けれどなんだか広く感じられた。
 ベッドを囲むように丸く並んで、自然と正座。チャンネルを合わせて、プログラムの起動を待つあいだ、娘も喜ぶと思います、とお父さんが言った。
 カウントダウンもなく現れたミユの幽霊は、白いロングワンピースを着ていた。
 こんな服もってたっけ、バスケのユニフォームじゃないんだ、と目配せしあうわたしたちには気づかず、みんな来てくれたよ、とお母さんが言った。
「あー、うん。ありがとね、みんな」
「ちょっと、なに照れてるの」ごめんね、とお母さんがふりかえる。わたしたちは黙ってうなずく。
「ほら、せっかく来てくれたんだから、みんなと話したほうがいい」しょうがないなあ、という顔でお父さんがうながす。
「うるさいなあ、わかってるってば」ミユは口をとがらせて、足をきれいにそろえて座った。
 なんだか気持ちわるい、とわたしたちは思った。ミユはわたしたちといるときに、こんな女の子座りなんかしない。なにを話せばいいかわからなくて、ミユの両親を覗き見る。娘に向ける笑顔はとてもあたたかくおだやかで、ふたりのほうが霊みたいだった。ドッジボールで球をおしつけあうみたいな逡巡のあと、おそるおそる話を切り出す。
「ミユ、久しぶり」
「久しぶり、元気だった?」
「うん、わたしたちは大丈夫だよ」いったん切って、会話がはじまればパスもまわしやすい。
「そういえばね、今度、哲郎のライブあるんだよ」
「哲郎?」
「うん、チケットとれるかわかんないけど。もし行けなくても、グッズはミユのぶんも買うからね」
 ミユはこてんと首をかしげた。そのしぐさはミユのものだった。わたしたちを見るその顔は、まぎれもなくミユの顔をしていた。だからこわくてしかたなかった。
「哲郎って、だれ?」

「あれ、ポテトじゃないの」
「最近ヤバいの、とくに足」
「べつにちょっとくらいよくない? もう冬だし。どーせタイツ履くでしょ」
「そういうこと言うやつが夏に泣くんですー」
「知ってますー、わざわざ言わないでくださーい」
 ミユのお母さんとお父さんは、娘のハマっている歌手も知らなかった。
 ミユが消えるまでの残り時間、どうやって過ごしたかはよく覚えていない。ただ帰り道、親の前で見せる自分と、友達といっしょにいるときの自分、そのギャップについて考えた。
 ふたりにとってはあれがミユで、わたしたちもべつに、それを否定したいわけじゃない。でもあれがミユという人間の全部だとも思わない。家ですまし顔をするミユがいたように、汗だくでバスケをするミユもいて、友達と下ネタで笑うミユがいた。
 もし今日、わたしたちが死んだらさ。一か月ぶりに来たおなじみの公園、寿命の近い外灯の下で、わたしたちはささやきあった。もしも幽霊になったら、わたしたちもああなるのかな。家で生きてた以外の時間は、全部なくなっちゃうのかな。
 それは、やだな。顔を上げると、おたがいの目におたがいの顔が映っていた。わたしたちはわたしたちを見ていた。それは死んだら消えてしまう、たよりない影の群れだった。
 だれが言いだしたのだったか、わたしたちは携帯をとりだして、LINEグループの名前を変えた。「友霊編集部」の5文字が、夜の公園にちいさく光った。
 こうして休日、テスト勉強を名目に集まってダラダラするのも、わたしたちの計画の一部だ。ねえ見て、この前iVisionバグってさ、デンスケすごいことになっちゃって、あー、電子ペット飼いだしたんだっけ、うん、パグタイプ、見せて見せて、やば、ケルベロスじゃん、笑うんだけど、ケルベロスやばい、速攻スクショ撮ったよね、ヒィーーー、そんな笑う?
 親の目が届かない場所で、親が聞いたことないような声で、ちょっとずつ自分の断片を交換する。親の知らない「わたし」たち。親密な空間で声は響いて、べつの「わたし」と交わりながら、自分の輪郭はかたちを変えつづけていく。
 そういえばさ、あれ知ってる、橋の下の幽霊、知ってる、多摩高の子でしょ、なにそれ知らない、吹部の子で、交通事故だっけ、そうそう、娘が思い入れを持ってた場所がいいって親が言ったらしくて、さすがに学校は無理だから、よく個人練に行ってた川の、橋の下をスポットにしたんだって、だから夜になると、お父さんとお母さんが川原に体育座りして、その子のクラリネットを聴いてるんだって、あれ、トランペットじゃなかったっけ、わたしはパーカッションって聞いたけど、外でパーカッション練習しないでしょ、ヒィーーー。
 そのなかですこしずつ中心が定まっていく。わたしたちは、ひとりじゃ自分になることもできない。でも依存じゃない。ちゃんと正直に「わたし」を見せて、それに本気で応えてくれる、信頼関係がないと成り立たない。
 ねえ、そろそろ時間じゃない? やばいやばい、とごみをかたづけ、店を出て駅前に駆けていく。iVisionに映るマーカーをたどって、明るい声のざわめくほうへ。
 広場にフラッグが立っている。実体のない電像じゃない。まだiVisionが浸透していない年配の層にも見えるように、リアルな布にリアルなプリント。
「#友霊」「#死後決定権」「#同性パートナーを編集者に」
 風にはためく文字を読みとると、SNSへのリンクが開く。フラッグが写るようにスマホをかざし、それぞれのベストアングルで表情を決める。投稿を済ませてまわりを見ると、同年代のひとがほとんど。中学生くらいの子たちもいる。楽しそうに声をあわせる若者たち、けれど視界を動かせば、苦い顔の大人たちが人垣を避けるように歩いていく。
 ネットを見れば、家族を壊すつもりか、と怒る声がいくつもある。でも、べつにわたしたちは、親を恨んでいるわけじゃない。わたしたちはただ、自分が自分でいられる場所を、自分で決める権利がほしいだけだ。
 だから、なにも特別じゃない。法律が変わって、編集者の範囲が友人やパートナーまで広がったとして、わたしたちの生活は変わらない。なるべく毎日学校に行って、ありふれたオリジナルのあいさつをして、授業中にメッセージを交わして笑い、昼休みは食べるよりもしゃべって、デオドラントが切れたら借りて、ぬりすぎたハンドクリームをおすそわけして、だれにも言わないでねって言って、親には見せない顔を寄せあう。そうやってすこしずつ日々を重ねて、わたしたちは大人になっていく。おたがいをよりよく知っていく。けんかすることもあるかもしれない。いまのグループから弾かれて、新しい友達を探すかもしれない。それでもいいのだ。いずれにしてもわたしたちは、今日を全力で楽しむだけ。そういう普通の日常が、死んでも続くなら超ラッキー。


『わたしが死んでもわたしはわたし』キクチコウヘイ(4302字)


よろしければサポートお願いいたします。サポートはコンテストに関わるクリエイターのために使わせていただきます。よろしくお願いいたします。