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「20××年の旅行事情」 浜時

 編集者とリモートでの打ち合わせを終えて、コーヒーを淹れているところに電話が入った。今時、音声専用ラインでかけてくる相手はそうそうない──と、発信元を確認すると、ディスプレイに表示されているのは伯母の名だ。いったいこの伯母というひとは、古典趣味はとまれ、少々常識を飛び越えたようなところがあって、この時も開口一番、
「アフリカに行かない?」
「アフリカ?」
 私は面食らった。伯母は屈託なげに続けて、
「ええ、アフリカ。A……国の大使が遊びに来ないかって。再来週」
「A……はアフリカの国じゃないでしょう」
「違いますよ。ヨーロッパ」
 私はいよいよ戸惑って、コーヒーのカップを手にリビングへ戻った。そうしてカウチに落ち着いて、改めて先を促してみると、伯母の話は次のようなものだった。
 伯母が大学時代、欧州に留学した際に親しくなった留学仲間に、A……国出身の男性がいる。帰国後、彼は公務員として世界各国を飛び回り、伯母は専業主婦となり、会う機会もなくなってしまったが、連絡はこの何十年間、互いにずっと取り合ってきた。その彼が現在、アフリカはZ……国に大使として駐在している。昨夜そこからヴォイスメールが入って、
 ──再来週からの休暇を久々に母国で過ごすつもりでいたら、ウィルス性感染症の流行が再燃、しかもそれが新たな株で、早速入国規制がかかった。空港検査後の待機期間を鑑みると、帰国しても意味がない。さてどうしよう……と、ここで、貴女のことを思い出した。夫君が事故で亡くなられてそろそろ三年。ご子息も独立したそうで、少し落ち着いたころと思う。良かったらこちらへ遊びに来ないか。……
 伯母と親友づきあいするひとだけに、アフリカをまるで隣県かなにかのように気楽に誘う。
「それこそ、修ちゃんと一緒には?」私が従弟の名を出すと、
「だめよ」伯母はきっぱり言った。「あの子が遊ぶといえば、まずバーチャルゲームなの。現実世界を歩き回ることには興味がない。そんなのと出かけてもつまらないわ。それに、女同士のほうが楽しいでしょ。彼も『両手に花だ』って喜んでいたし」
「え?」
 伯母の中で、同行は決定事項らしい。私はつい声を上げたが、伯母は悪びれるふうもなく、
「だって、旅行エッセイが売りの文筆家として、こんな機会を逃すなんてないと思うもの。大使のエスコートで観光して、宿泊は大使公邸の客室、食事は雇われシェフの料理。滅多にできる経験じゃないわよ」
 道理ではある。私は天井を見上げて吐息をついた。
「すぐに準備にかかりなさいね。さもないと、出立に間に合わなくなりますよ」「あ、そうか。Z……国はビザが必要でしたっけ」
「ビザもそうだけど、アフリカでしょう? 入国にあたって必要とされている予防接種が多いのよ。しかも、複数回打たないといけない注射とか、最低何日は間をおかなければならない注射とか。大げさじゃなく、日程は結構ぎりぎりよ」
 アフリカはもともと地域性から、渡航の際には十数年前から世界各地で流行をみている、呼吸器感染症に係るワクチンだけではない。肝炎や熱病、破傷風、チフス等に対する予防接種が奨励されている。必ずしも「義務」ではないが、接種証明書がないと入国を拒否される場合もあると聞くから、打っておくにしくはない。伯母は既に居住区の保健所や医療機関に問い合わせ、必要な注射の種類や接種場所について既に確認をとったという。
「予防接種が間に合わなくて行けなくなったなんてことにならないよう、注意なさいね」と、伯母はうきうきとした調子で締めくくった。

 姉さんは台風みたいなひとだから──とは、昔から、実家の母が諦観の態でしばしば口にしていたことだったが、今回の件を伝えると、母はやはりため息混じりに、
「義兄さんが亡くなって、修ちゃんが家を出て、これまで妻と母の役を優先してきた、その反動かしらね。身軽になって最初の旅先が国内じゃなくて海外で、しかもアフリカっていうのが、いかにも姉さんらしいけど」
「滞在中に、『いっそ大陸を一周しよう』なんて言い出しかねない勢いだったわ」ディスプレイの中の母が額を押さえたので、私は慌てて、「もし誘われても、お断りするわよ。私は予定どおり観光を終えたら、帰国するから」
「そう願うわ」と、母は頷いた。
 私はたったひとりの姪として、伯母に可愛がられて育った。おとなしい母とは正反対のどこか突き抜けた感のあるひとは、小さいころから一緒にいるのが面白くて大好きだったが、伯母のほうは私が成長するにつれ、「親戚の子」から「気の合う女友達」へと意識が微妙に変わったらしい。この何年かは、そんな感覚で声をかけてくるようになった。
 母もそのへんは承知していて、「たぶんあなたは、気質が私よりも姉さんに似ていて、それで姉さんもあなたといると楽なんだと思うのよ」というふうで、アフリカ旅行も「まあ、ふたりで楽しんでいらっしゃい」と、特に反対するでもなかった。
 そこで早速、ビザの取得や予防接種の申請にかかり始めたのだが、二日後には再び伯母から電話が入って、またもや前置きなしに、
「だめになっちゃったわ」
 言われなくとも、旅行の件とは察しがつく。
「あら。大使のご都合が悪くなりました?」
 残念ではあるが、公務が発生したなら仕方がない。私は即座に、一般的な観光旅行に頭を切り替えた。しかし伯母は、
「ううん。彼じゃなくて、私のほう」
 実は伯母は一昨年、進行性の新型ウィルス性胃腸炎に感染した。主治医と相談の上で、生活に大きく影響がでそうな手術ではなく、進行を抑えるための投薬治療を選択したのだが、今回接種が必要とされているワクチンに、飲んでいる薬の成分と相性の悪いものが二、三あるという。接種すると心臓発作を起こす可能性が三十パーセント……と、医師の説明を受け、さすがの伯母も踏みとどまった。「旅行に行くためと打って入院だ、葬式だなんて事態になったら、修も納得しないでしょうしね。でも、あなたがひとりでも行きたいなら、中止することはないのよ。向こうにはもう、事情を伝えてある。『姪御さんが来るなら待っているし、取材を兼ねての旅ならそのつもりで案内先をコーディネートする』と言ってくれていますよ」
 普段の言動から大概な印象を受けがちな伯母だが、こんなふうに、当たり前の顔で真に実際的な心遣いをしてくれる。
「ありがとうございます」私は素直な気持ちで礼を述べた。
「行く?」と、明るい声で伯母が応える。
「お言葉に甘えて」
「甘えなさい」
 伯母は満足そうに笑って、お土産話を期待していると通話を終えた。

「旅行は中止」と、伯母から三度目の電話があったのは、その翌々日である。 私はちょうど馴染のオンライン・モールで旅行に必要な品々の注文を済ませ、揃わない分は取り寄せを依頼したところだったから、一瞬呆気にとられたが、伯母は珍しく硬い、生真面目な声で続けて、
「Z……国に、重症急性呼吸器症候群の新しい型がでたんですって」
「えっ」
 私はすぐさま端末を操作してニュースサイトにアクセスした。伯母はそれを見ているかのように、受話器の向こうで、
「正式発表前だから、まだサイトにはあがっていませんよ。今しがた大使館経由で入った情報だって、彼がメールで知らせてきたの。空港と港湾は即時封鎖、観光目的の入国は当面禁止の見込みですって」
 なるほど、これは駄目だ。入国規制がいつ緩和されるかはっきりしないのに加え、規制緩和後に入ったとして、行動制限の状況によっては、どこまで好きに動けるかわからない。いずれにせよ、再来週という日程にはまず間に合うまい──まあ、今のご時勢ままあることだと、私はそっと吐息をついた。
 しかし、伯母はそこで話を終えずに、
「それでね。あなた、あれ持っているわよね? バーチャルで使う、あれ」
「ヘッドセットですか? ええ、持ってます」ごく普通のタイプですけど……と、私が最後まで言い終わらないうちに、
「彼がね、大使館と公邸をロケーション設定すると言うの。大使館はもちろん一般見学が許可されている部分限定だけど、大使公邸のほうはほぼ全館、大丈夫って。一緒に行かない?」
 私は一拍間を置いた。
「伯母さん、ヘッドセットって持ってました?」
「修に借りるわよ。あの子ってば五つも六つも持っているんだから、ひとつくらいこっちに貸してくれるでしょう」
「『バーチャル旅行に使う用』と、指定しないとだめですよ」
「あら。違いがあるの?」
「あります」
 答えながら、私はぼんやり考えた。
 子供のころは、こんなふうに世界中で新たな感染症とその亜種が次から次へと現れて、出入国規制や行動制限が日常になるなど、想像だにしなかった。その状況がVRの開発に拍車をかけて、専用機器さえあれば誰もが──制限付きとはいえ──任意の現実を仮想空間に設定できるようになり、それをまた、「アバター」ではなく──専用機器さえあればだが──「自分自身」で経験するのが一般的になるということも。
 私はまだぎりぎり、現地を訪ねる旅行が一般的だった世代に属して、その経験に基づいた感覚が現在の仕事の基盤となっている。だが、学校の授業も遊興もネットが当然という環境で育ってきた、例えば修ちゃんあたりの年代は、むしろバーチャルのほうが現実的で、「居心地が良くて安全な部屋にゆったり座って、しかも格安で世界中を見て周れるのに、どうして病気や事故や、テロに遭うリスクをおかして、わざわざ出かける必要があるのさ?」となるのかもしれない。
 大使はほかにも、許可がおりる範囲で町中の施設、話題の店などを「ロケーション」して、私たちを案内してくれるつもりらしい。伯母がうきうきした調子で言っている。
「アクセスコードとパスが送られてきたら、改めて連絡するわね」
 よろしくお願いしますと電話を切って、私はコーヒーを淹れに立ち上がった。
                                 (了)


『20××年の旅行事情』 浜時(4047字)



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