「明日のピーマン」 カラミティ明太子
ピーマンと豚肉のチンジャオロースーが盛られた皿に箸を伸ばし、そこそこの量を取って口に運んだ。とりあえずで点けたテレビの画面は知らないアイドルがドローンを使った幾何学な光が乱反射するステージで踊っていた。
別に見たい番組があったわけではない。ただ無音のまま食事をするのが何となく嫌なだけだった。テレビの雑音が無ければ箸と皿が当たる音と私が咀嚼する音だけのコンサートになっていたはずだ。
「あ」
そういえばビールを買っていたっけ。すっかり忘れて危うく冷蔵庫の肥やしにしてしまうところだった。
冷蔵庫のドアに据えられたディスプレイは中の温度と、どこに何があるかを読み取り画面上に映してくれていた。どうやらしばらく飲まないうちに缶ビールは最奥まで押し込まれてしまっていたらしい。
外気温を検知し、自動で室温を一定に保つ空調のおかげで時折季節感を忘れそうになる。少しだけ開けた窓からは芯の通った冷たい空気が緩やかに部屋の中に流れ込んできた。
外を見れば遠くのネオン看板と航空障害灯の光が混ざり合い、まるで遠くに浮かぶ蜃気楼の街を見ているような気分だった。
「……寒っ」
身震いし、そそくさと窓を閉めて私はビールの蓋を開けた。小さな泡が弾けて麦の匂いが鼻をくすぐる。
子供の頃、親が飲んでいたビールに妙な憧れを持っていた。大人だけが飲むことを許された謎の缶ジュース、と思えば確かに子供心には魅惑的に見えるだろう。実際は喉を滑り落ちる炭酸の刺激と、後から追いかけてくるアルコールの妙な浮遊感に気分を高揚させて一時的に疲労を忘れさせる大人のための薬のようなものだ。
ピーマンの苦味がビールに良く合う。熱が通って柔らかさを得た野菜の歯ごたえと香辛料で味付けされた肉の風味が酒を飲む手を早めていく。
∮
専用のゴーグルをつけて台の上に横たわる人たちを眺めながら私は少しだけ溜息をついた。
仮想現実の旅行代理店なんて、私が子供の頃には欠片も予感をさせなかった職業だ。外国へ行くのに飛行機を飛ばさずとも、ゴーグル1つで現地の景色を体験できるというのは航空会社からしたらたまったものではないだろう。
私がすることは普通の旅行代理店と何1つ変わらない。どこに行きたいか、どんな体験をしたいのかを聞いてそれに見合う行き先を提示するだけ。
仮想の世界で彼らが得た経験、記憶の実在性を自問することは入社して新人研修が終わる頃にはもう止めていた。羨ましいとか私も行ってみたい、なんて考えも今となっては退勤時間を今か今かと待ち侘びる気持ちですぐに流されていた。
「取ればいいじゃん、有給」
キョウコは大学時代の友人だ。私が住むワンルームのソファにクッションを枕にして寝転びながらそう言う彼女は、人によっては猫のようだと形容したくなるだろう。
「取ってもすることないし」
「どこか出かけないの?」
「そういう気も起きないんだよね」
ふーん、と適当な相槌を打つと彼女は缶チューハイに口をつけた。
「仕事の経験を活かしてさ、面白そうなところに旅行行ってみれば?」
「仮想旅行?仕事思い出すからパス」
「じゃなくて、現実で」
肘置きから頭が飛び出て長い黒髪が床に垂れた。逆さまの表情が笑みを作って私を見つめていることに気づいたのはビールを半分ほど飲んだ時だった。
「行こうよ。どこか、イイ感じのとこ」
「何それ」
「休み取ってさ、金土日の3連休。どこか行こうよ」
「今月はもう無理だよ。少し忙しいし」
「じゃあ来月。決まりね。私も予定合わせるから!」
「……ちょっと待った、キョウコも行くの?」
「そのつもりで言ってたんだけど?」
それはすまなかったと謝るよりも前に、私の来月の予定がサクサクと目の前で決められていく様子にまだ心が追いつけなかった。
どこに行くのかの決定権も私には無いようで、キョウコは楽しそうに手元でスマートフォンの画面をスワイプしながら場所の名前を呟いていた。
「温泉とかどう?」
「キョウコが入りたいだけでしょ」
「まあね」
最近肩コリが激しくて、と誰に問われるでもなく理由を言いながらスワイプを続け、そして一際大きな声で「お」と声を発した。
「『立体ヴィジョンが合戦の景色を甦らせる、幻想の川中島へようこそ!』……だって!これ面白そうじゃない?」
「川中島ってどこだっけ?」
「えっとね、……長野だって」
「長野って……」
頭の中で思い描いた地図によればそこそこ距離が開いているはずだ。片道にかかる時間のおおよそを考えて、私はキョウコが飲み終えた缶を回収して言った。
「移動はどうするの?」
「新幹線でいいんじゃない?」
パーッといこうよ、と明るい表情が浮かんでいるのは酒によるものだけではないはずだ。キョウコは昔から明るく快活な女性で、その性根は今も変わっていない。
「分かった。じゃ、それ見に行こう。いつ?」
「来月の半ばかな。第2週の金土日はどう?」
「うん、分かった。予定開けとく」
「そうと決まれば予定が決まったことを祝して乾杯!」
缶チューハイの蓋を開けて高らかに掲げ、気持ちの良い飲みっぷりを見せるキョウコは私の突っ張った肩肘を解してくれるようだった。
「楽しみだなぁ、織田信長のホログラム。どんな感じなんだろう」
「織田信長は尾張だけどね」
∮
「いやぁ、まったく良い1日ですなぁ」
旅館の浴衣に袖を通したキョウコは満足げに頷くと、皿に盛られた天ぷらを齧りながらグラスに注がれた日本酒を呷った。
「すっかり合戦のこと忘れてるでしょ」
私がそう突きたくなる気持ちは無理もないはずだ。温泉の効能か肌ツヤを増した肌を紅潮させてビュッフェ形式の夕食に舌鼓を打つ様子から見るに、昼間見た光景は記憶の片隅に追いやられているに違いない。
「いやいや、そうでもないよ?」
「どうだか」
「覚えてるって。迫力あったし」
「小学生でももう少しマシな感想言うんじゃない?」
「じゃあ私の代わりに感想どうぞ」
エアマイクを差し向けられた私はしばし思案し、観念して首を横へ振った。
「迫力あった……かな」
「はい駄目ー」
「はいはい私が悪うございました」
捨て台詞を吐いてピーマンの天ぷらを咀嚼しながら、私はふと思った。
最近は子供の好き嫌いを無くせるように、味覚が受容する苦味や酸味が鈍くなるように品種改良された野菜が増えている。農家の努力の成果か、実際の風味は損なわれていないが子供の鋭敏な味覚からしたら劇的な変化があるらしく野菜を嫌う子供は減っているらしい。
そういえば、昔はピーマンが嫌いだった。
「嫌いな食べ物とかあった?」
私に問われたキョウコは小さく首を横に振った。
「無いよ。好き嫌いしてたら怒られたし」
弟はシイタケが嫌いだったけどね、と付け足すと彼女は次の料理、もとい酒の肴を求めて席を立った。
いつの間にかピーマンを食べられるようになったのは科学の進歩のおかげか、はたまた加齢によって味覚が衰えたからだろうか。
きっと将来──といっても、今の自分も昔の自分からしたら十分に将来と呼べるものではあるが──もっと未来の自分はより衰え、そして今の自分で得られていない体験をしていることだろう。
仮想現実の旅行や子供に嫌われない野菜のように、今の自分からは想像もつかない何かが存在する世界に当たり前のように立っている自分を想像して私は少しだけ苦笑した。
「空飛ぶ車はさすがにまだまだ先かな」
グラスを呷り、皿に盛った料理を品定めしてどれを食べようか本格的に狙いをつける。今日は無礼講なのだ。思う存分飲み食いして、日々の疲れを忘れようじゃないか。
仮想現実の旅行者だって同じ気持ちなのだろう。こうして私が普段食べないような物を口にする喜びを体験をするのと同じように、寝ながらにして知らない土地を歩く喜びを体験しているのだ。
もしかしたら居るのかもしれない。仮想現実のこの場所で、同じように誰かと酒を飲む旅行者だって。
ピーマンの肉詰めを齧ると苦味と肉の旨味が口の中で混ざり合う。
心地の良い苦味を確かめるように咀嚼して私は思った。
明日の自分はどんな新しい体験をしているのだろう、と。
〈了〉
『明日のピーマン』カラミティ明太子(3290字)
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