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「雨降る20××年」 鴉丸譲之介

『とんでもない時代になった』——大人たちがそう言うのを、物心ついた頃から耳にしていた。

 電話、テレビ、インターネット——何十年かに一度、技術革新が起きるたびに、それまでSF映画か小説にしか登場しなかった空想の産物のような代物が、日々の暮らしに組み込まれて『当たり前』となってきた。そのたびに、旧き時代の営みを知る者たちは皆、感嘆か懐古からか、口を揃えて『とんでもない時代になった』と言ったものだ。
 いつしか、自分もそんな台詞を口にするようになっていた。

 朝一番、高校二年生になる娘の部屋から聞こえてくるアラームの音で目を覚ます。昔はいちいち時刻を手動で設定しなくてはいけなかったのに、今は機械が普段のスケジュールや行動パターンを記憶して勝手に設定してくれるのだから、とんでもない時代になったものだ。
 身体を伸ばしてベッドから起き上がると、寝室のカーテンがひとりでに開き、窓硝子代わりの透明なモニター上に今日の天気と、AIによってネットから選出されたニュース記事が幾つか表示された。こういった代物も子供の時分に映画で似たようなものを観ていたのが、今では何処へ行っても当たり前に導入されている。表示されているニュース記事に大したことは載っていない。世界情勢は未だ不安定、国内も相変わらずの不景気だが、今のところ全面核戦争も起きていなければ、AIによる人類の支配も起きていない。幸いなことに、そういったものはまだフィクションの領域に留まっている。
 天気予報によれば、今日は丸一日雨らしかった。娘は雨が嫌いだが、個人的にはむしろ好きな天気だ。普段着に着替えてから、足取り軽く階下のリビングへと降りた。
 リビングに足を踏み入れるや、いつものようにお掃除ロボットがぴたりと後ろをついて回る。汚いと思われているようで癪に障り、今日こそはと爪先で小突こうとしたが、小さな宿敵はそれをさらりとかわし、当てつけがましく足の周りを素早く拭いてから、静かに台所の方へと滑っていった。ひと昔まえは高級品だったものが、今や学生のバイト代でも買えるほど廉価なものになり、当時のものとは比べものにならないほど高性能になっている。娘があれを買ってきてから、掃除など久しくしていない。まったくとんでもない時代になったものだ。
「おはよう」既に食卓についていた制服姿の娘に挨拶をする。土曜日なので学校は休みのはずだが、近々文化祭があるとかで、休日返上で準備を進めているらしい。なにか悩みでもあるのか、単に機嫌が悪いだけか、娘はこちらを一瞥し、「うん」と冷たく返しただけだった。年頃の娘が父親に口をきかないのは、どれだけ技術が発達しようと変わらないようだ。冷蔵庫から昨日の残り物を取り出してレンジで温めていると、娘が逃げるように席を立ち、そのまま玄関の方へ行ってしまう。
「いってらっしゃい」とこちらが言い終える前に、玄関の扉が閉まる音がした。娘は多感な時期、今は大変な時期だろう。これも仕方のないことだと、ひとり朝食の席に着いた。
 着替えを済ませ、休日の日課である散歩に出掛けようと、傘を持って玄関の外に出る。戸締まりをしなくてはと昔の癖で振り返るが、鍵穴の無いのっぺらぼうの扉は施錠を示す電子音を鳴らし、送り出すように一度明滅して、やがてうんともすんとも言わなくなる。一度こうなれば、センサーと顔認証によって住人だと認められない限り家に入ることは出来ない。空き巣は商売あがったりだろうが、しかしとんでもない時代になったものだ。
 降り頻る雨は、昔となんら変わりない。雨粒が足下のアスファルトを濡らし、どこか追懐の意をくすぐる独特の匂いを立ち昇らせている。しかし通りの様子は、この数十年で劇的に表情を変えていた。見上げれば、曇天を貫くような高層ビルが幾つも聳え立ち、徹底的に整備された車道を走っているのは、どれも例外なく電気自動車だ。地球温暖化への対策、また化石燃料の枯渇によってガソリン車の時代は終わり、環境と人に配慮された電気自動車に取って代わられた。歩道を往く通行人は、誰も傘をさしていない。去年発売され、爆発的に普及した通称『雨除けネックレス』が着用者の周囲に害の無い超音波を発生させて雨粒を弾き飛ばすので、わざわざ傘で片手を塞ぐ必要もなくなっていた。とんでもない時代になったものだ。傘はすっかり過去の遺物となっている。雨の日に傘を持って出歩けば、いつも好奇の目を向けられた。
 ゆっくりと手許の傘を開く。淡い紫色の傘は、雨に濡れるとうっすらと花模様を浮かばせた。頭上に掲げれば、雨粒が傘を打つ音がする。この優しい音が、昔から好きなのだ。これを聞くために、今も雨が降れば傘を差す。車道を挟んだ向かいの歩道を歩くカップルが無遠慮にこちらを指したが、構わずに歩き出した。
 都市部の真ん中にある自宅を離れ、郊外へと向かう。電車かAIタクシーを使えば早いのだが、休みの日くらい時間に縛られず、目眩くテクノロジーの海から離れていたかった。そんな年寄りらしいことを思うのは、着実に歳を取っている証拠かもしれない。若者が、娘が嫌がるわけだと、自嘲げに笑った。
 雨の調べに浸りながら二時間ほど歩くと、少しだけ空が広くなる。都市部のビル群を抜け、目当ての場所へ着いた合図だった。馴染みの道を進んで、やがて淋しい墓地へと辿り着く。立ち並ぶ墓標を通り過ぎ、妻の名が刻まれたひとつの前で足を止めた。雨滴が、見知った石を洗ってくれていた。
「やぁ、来たよ」
 妻が遺した傘を差したまま、物言わぬ墓石に向けて呟く。
「今週も俺だけだ。あの子は……もう少し時間が要る——」
 そう言ったきり口を閉じれば、聞こえるのは雨粒が傘を打つ音だけだった。

 技術革新、医療の進歩は、少し遅すぎた。悲しいかな、いつまで経っても難病は難病のままらしい。
「どれだけ科学が発展しても、死ぬのだけは避けられないね」
 戦いに戦った妻は、そう言い残して五年前に逝った。以来、娘はすっかり心を閉ざしてしまっている。悲しみを癒やす機械の製造は、未だ実現していないのだ。
「——思春期の娘なんて、どう接していいか全然分からん。君が居てくれればなぁ……」
 言葉尻が雨音に掻き消される。激しさを増した雨は、続く弱音も泣き言も、すべて優しく覆い隠した。

 墓参りを済ませ、自宅に向けて歩き出してすぐ、ポケットに入れていたスマート・ピース——スマートフォンを高性能化、ペンほどのサイズにまで小型化した端末が震えだす。娘が電話をかけてきていた。
 娘から電話など、いつ振りだろうか。
「もしもし?」
 少し前まで泣いていたのを悟られぬよう、平静を装って電話に出る。少しして、小さな声で返事があった。
「……今どこ?」
「お母さんのお墓の前」
 答えると、長い沈黙がやってくる。娘は今、なにを思っているのだろう。雨脚は更に強まって、傘が立てる音はほとんどドラムロールのようになっていた。「……迎え、来てくれない? 帰る途中でネックレス故障しちゃって。雨宿りしてるんだけど」
 お金持ってるだろ。タクシー呼べばいいじゃないか——言いかけて、慌てて口をつぐむ。
 娘は、あえて電話してきているのだ。
 ほんと鈍いのねと、妻の声が雨に混じって聞こえてくるようだった。
「すぐ行くから、ちょっと待てる?」
 訊ねると、娘は「うん」とだけ言って、電話を切った。その声色が、朝よりも少し柔らかい気がした。
 電話を切り、スマート・ピースのホロディスプレイを広げて、娘の位置をGPSで確認する。誤差五センチ未満の精度で表示される位置情報によれば、娘はここから車で二十分足らずの場所に居るらしい。すぐにAIタクシーを呼び寄せると、どこかで待ち構えていたのか、一分とかからずに無人のタクシーが現れる。まったく、とんでもない時代になったものだ。
「このGPSの位置まで」
 乗り込んですぐに娘の位置情報を送信すると、AIは気味悪いほど人間らしく「シートベルトを締めてください」と告げてから、滑るように車を発車させた。

 20XX年——このとんでもない時代に於いても、人間は未だ不器用である。



『雨降る20XX年』 鴉丸 譲之介  3329文字


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