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狼 狂い来たりて-半の上の辻堂跡 狂狼順礼殉難の地-

この記事は、狼による獣害事件を扱っているため文中に残酷な表現があります。読者の方を怖がらせようと思ったり、グロ趣味を広めようと企図したりする記事ではありませんが、怖いこと、残酷なこと、グロ趣味が苦手な方は読むことをお控えください。
また、タイトルに「順礼」とありますが、これはこの事件を記した当時の古文書に書かれている表記で、本文中ではより一般的と思われる「巡礼」と表記させていただきます。

江戸時代中頃に、現在の西伯郡江府町武庫という集落で、狼が西国巡礼の一行を襲って2人が犠牲になった事件がありました。

昭和54年(1979年)1月 鳥取県西伯郡江府町州河崎

昭和54年の正月。鳥取県西伯郡江府町州河崎(すがさき)のAさん方の土蔵から一連の古文書が見つかった。Aさん方は先祖代々、旧・州河崎村の庄屋を務めており、その古文書はおよそ200年前に州河崎村の枝村である半の上村で起きた狼による凄惨な獣害を記録した文書だった。

天明3年(1783年)8月1日(旧暦) 7人の巡礼

天明3年(1783年)8月1日。この日、日野川沿いには厚い雲が垂れ込め、雨が降っていた。その中を1組の巡礼が川沿いの道を上流に向かって歩いていた。信濃国原口村(長野県小県郡東部町→東御市)の市助一家4人と、備後国神辺宿(広島県深安郡神辺町→福山市神辺町)の後家はつである。
・市助一家:市助(44)、妻・む免(39)、息子・亀吉(7)、娘・いと(4)
・はつ(54)
市助一家とはつは5月頃に丹後国(京都府北部)の成相寺で知り合い、伯耆大山に詣で、四国遍路に向かう途中だった。
市助の村は、この年7月に大噴火を起こした浅間山の麓にあった。はつは17年前に疫痢で夫と子どもを含む家族全員を亡くし、自らも疫痢で苦しんだ。彼女は、伯父が残した庵と少しの田畑を持っていたが、5年前に巡礼に出て、3年前に故郷に帰ったが、再び巡礼に出ている。
一行から少し遅れて、二人の巡礼が同じ道を歩いていた。安芸国竹原村(広島県竹原市)の道心(13歳から15歳で仏門に入った人のこと)即心と彼の隣に住む里よである。
即心は44歳で故郷に高齢の父を残して2年前に巡礼に出た。里よは36歳。二人とも四国遍路に行く途中だった。
即心と里よは伯耆大山で市助一家とはつに出会い、この日の朝、少し下流の江尾で報謝を乞うて別れたばかりだった。
降りしきる雨は激しさを増した。市助一家とはつは8月1日の夕方頃、半の上村(現・西伯郡江府町武庫)の辻堂に着いた。即心と里よは、夜8時頃に同じ辻堂に着いた。

踏切の向こうが半の上の集落

夜になってさらに激しさを増した雨はやむ気配がなかった。

8月2日早暁 狼が辻堂を襲撃

8月2日の午前3時頃、一匹の狼が辻堂を襲った。
辻堂の扉に爪を立てて堂内に飛び込んだ狼は、まず市助を襲った。足に噛みつかれ、びっくりして飛び起きた市助に、狼は続けざまに襲いかかる。噛みついては飛び離れ、噛みついては飛び離れの狼の攻撃。二人の子どもを背後に隠し、素手で立ち向かった市助だったが、のどをかばった左手親指を狼に噛みちぎられた。市助の悲鳴で目を覚ました他の一行は、何らの武器を持っておらず、うろたえるばかりだった。彼ら彼女らにも狼は続けざまに噛みついた。

惨劇

間断ない狼の攻撃に市助が疲れて動けなくなった隙に、狼は幼い亀吉ののどに食いついた。狼はそのまま後ずさりしながら亀吉を堂外に引きずり出し、のどを噛み裂き、顔面を集中して攻撃した。ほとんど悲鳴を上げるいとますらなく、亀吉は死んだ。
堂内の一行は息を潜めていたが、再び狼が飛び込んできた。狼は里よののどを噛み裂き、やはり後ずさりして里よを堂外に引きずり出した。里よも顔面を噛み裂かれて息絶え、腹を30㎝四方も食い破られていた。
里よが殺されている隙に一行は板壁にとっかかりを見つけ、天井の梁に逃れた。
やがて明るくなり、狼は何処へか去った。
・亀吉(死亡) のどを噛み破られ、顔面に無数の深い傷
・里よ(死亡) のどを噛み破られ、顔面に無数の深い傷。腹を30㎝四方も食い破られる
・市助(重傷) 左右の手のひらに大きな傷。左手親指を食い切られる。全身に無数の小さな傷
・即心(重傷) 頭に3ヶ所の歯傷。右手親指を食い切られる
・はつ(軽傷) 左の手のひらと目の上に歯傷。鬢に浅い傷3ヶ所
・市助が命がけで守った妻む免と娘いとは無傷だった。
これほどの人的被害が出たにもかかわらず、前夜から激しく降りしきる雨の音にかき消されて、巡礼たちの悲鳴は村人に届かなかった。

このさらに翌日の8月3日早朝。半の上村から少し上流の貝原村で人に襲いかかった狼が、イノシシ狩り用の槍で突き殺されている。当時の文書には「一行を襲った狼の可能性がある」と記されている。

惨劇のあった辻堂跡
惨劇のあった辻堂跡
惨劇のあった辻堂跡

半の上村 恐怖

8月2日朝。傷が浅かったはつが、半の上村の五人組頭の家に狼による被害を訴えた。すぐに辻堂に駆けつけた五人組頭は惨劇に驚愕し、村役人に届け出るとともに村内にも伝えた。武庫村の村役人も半の上村に駆けつけ、番人をたて、巡礼たちに聞き取りをし、食事を与えて医者の手配をした。さらに、死体の様子を見聞し、巡礼たちに事の次第を聞き取りした。
本村である日野川対岸の州河崎村にも、川が増水していたが何らかの手段で知らせた。2日夕、州河崎村の泳ぎの達者な若者3人が日野川を渡り、巡礼たちから聞き取りをした。
3日朝、日野川の増水がおさまり、川越えが出来るようになった。州河崎村の大庄屋もやってきた。当時は天明の大飢饉の最中で、小さな半の上村は困窮していたため、巡礼一行は州河崎村で引き取ることにし、小屋を建てて巡礼一行を収容した。
3日夜。狼の遠吠えが響き、巡礼たちは恐怖に震えた。

聞き取り

巡礼たちの聞き取りをした文書には「狂狼」(市助)、「狼 狂い来たり」(はつ ※この記事のタイトルはこのはつの口上書の表現から借用したもの)と記されている。これはもちろん一行を襲った狼への恐怖の表現だが、「人を襲う狼は狂った狼」という認識も示している。事実、村役人の調書にも「狼はたくさんいるが、そんなに人に襲いかかるものではない」と記録されている。
また、巡礼一行もそれぞれの故郷を出て、長い年月にわたり長い旅をしているのだが、狼から身を守る武器を携帯していない。この事故の直前には、当時狼がたくさん生息していた伯耆大山を通っており、旅の途中で野宿もしているはずである。にもかかわらず、狼に対する用心はしていない。
これは彼らに「狼はめったに人を襲わない」という認識があったからではないか。
※ただ現実には、江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉が「生類憐れみの令」を発した1600年代後期あたりから、狼が人を襲った公的な記録が全国で激増している。
村役人の調書には「(狼は)そんなに人に襲いかかるものではない」という記述に続いて「(一行を襲った狼は)恐らく病狼(狂犬病の狼)ではないか」と記されている。

日野川と州河崎(対岸の集落)
当時、旧・州河崎村は半の上の本村だった。
事件の起きた8月2日夕から翌3日にかけて、村から大庄屋や村役人がやってきて聞き取りを行った

狂犬病

狂犬病はウイルスによって発病する。犬だけでなく哺乳類全般に存在する病気で、狂犬病ウイルスをもった動物に噛まれることで感染する。
人が狂犬病を発症した場合、ウイルスによって神経が過敏に刺激され、光、水、風、音、においなどの刺激に激しく反応し、興奮状態になったり激痛を訴えたりする。現代医学でも治療法はなく、発病したらじきにもだえ死ぬ。死亡率はほぼ100%の恐ろしい病気である。
日本は世界で数少ない狂犬病清浄国だが、海外で狂犬病の犬にかまれた患者が帰国して発病するケースがまれに発生している。近年では2006年に2件、2020年に1件の狂犬病発生例があり、いずれも発症者は死亡している。国際交流の盛んな現在、狂犬病ウイルスをもった動物が国内に入り込む可能性は充分にあり、犬を飼っている場合は狂犬病ワクチンを接種することは必須である。
狂犬病は1700年代初頭に日本に侵入した。この事件が起きた1783年には、因伯にも侵入していたはずである。当時の記録に「病狼」と記されているのもそれを裏付けている。かつては「神獣」として崇められていた狼が恐怖の対象となったのも、この頃と考えられている。
余談だが、西洋の伝説に登場する吸血鬼や狼男のもととなったのが、狂犬病ではないかとの説もある。たしかに、光や聖水、ニンニクの強いにおいを恐れるという彼らの弱点は、狂犬病の症状と一致している。
狂犬病の潜伏期間は2週間から2か月。長い場合は250日ほど。助かった巡礼一行はいずれも顔や頭に深い傷を負っていた、彼らは2週間から1か月ほど村に滞在したが、狂犬病を発症した者はいない。これらのことから、参考資料を著した栗栖健氏は、「狂犬病の狼ではなく、群れから離れた孤独な狼だったのではないか」と推定されている。
よく知られているように狼は群れで狩りをする。群れから離れれば、シカやノウサギ、イノシシなどの足の速い獲物を独力で捕らえるのは困難になり、逃げ足が遅く、体力もなく、木に登るのも不得意な人間を襲うようになる。

巡礼たちのその後

事件の翌日8月3日に聞き取りに答えた市助の調書(抜粋)。狼の襲撃の様子についてくわしく説明した後、その後の身の振り方について説明している。
「(前略)。当方は、通行手形を所有しており、故郷に親類がありますが、(彼らも)旅に出ていることは承知しており、捨て往来を願って(旅の途中で死んでも故郷への連絡は不要)の旅です。傷が治ったら一刻も早く四国巡礼に旅立ちたいと思います。
狼に殺されて無惨な姿になった亀吉(息子)は一刻も早く葬って、姿を隠していただきたいのです」

事件を訴え出たはつの調書も残っており、市助同様に自己の身の上や狼襲撃の様子を答えている。
二人とも、旅の途中で命を落とした場合は、故郷への連絡は必要なく、その国のやり方で処置してほしいと述べている。

8月16日。軽傷だったはつは「傷が治ったので四国巡礼に出発したい」と伝えて州河崎村を出た。天明の大飢饉の最中で、村としても長期間にわたって巡礼の世話をするのは大きな負担だった。
9月上旬。市助一家も村を出た。即心が村を出た時期は不明だが、市助一家と同じ頃に村を出たと思われる。
巡礼たちの一行がその後どうなったのかは不明である。

村にはこの惨事の記憶が長く語り継がれた。
昭和の初め頃まで、子どもがいたずらをしたりわがままを言ったりすると、年寄りから「山から"ふるい"狼がやってきて喰うぞ」と脅されたという。
"ふるい"狼とは「古い」狼つまり年とった狼とも、「震え」狼つまり病気の狼のことともいう。

辻堂跡の近くにある五輪塔群
この五輪塔群は、巡礼たちの墓ではありません

半の上村の辻堂跡の場所

<参考資料>
・Wikipedia 狂犬病 - Wikipedia
・ふるさとの動物ばなし 著:栗栖健 郷土シリーズ22 (財)鳥取市社会教育事業団 昭和58年(1983年)3月31日発行
・日本人とオオカミ 世界でも特異なその関係と歴史 著:栗栖健 雄山閣 2004年(平成16)2月20日発行 2015年(平成27)5月25日生活文化選書としての初版発行 2020年(令和2)7月25日生活文化選書としての第2版発行

著者の栗栖健氏は毎日新聞記者。1978年(昭和53)5月から1981年(昭和56)3月まで毎日新聞鳥取支局に勤めました。その間、鳥取県内に生息する(生息していた)野生動物を精力的に取材し、その成果を紙上に連載しました。この他に『アユと日本の川』(築地書館 2008年)という著書があります。

次回予告 静の岩屋-八百比丘尼の入定崫-

人魚の肉を食べると不老不死になるという伝説。鳥取にもその人魚伝説がありました。

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