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村山半牧 自決の地

見附市斎場から見附中学校方向に歩き、テニスコートと野球場を右手に見ながら見附市陸上競技場を過ぎ、丘を降りた広い道を右に向かって少し行くと、幕末の悲劇を秘めた史跡があります。村山半牧自決の地(見附市指定文化財)です。

村山半牧について

村山半牧(むらやま・はんぼく)は1828年(文政11)に小須戸に生まれ(三条生まれの説もあり)三条で育ったと言われています。通称は秀一郎。半牧は号です。若くして画を長谷川嵐渓に学び、南画家(※)として名をなしました。京都では藤本鉄石、山中清逸らと親交をもち、勤王の志を深くしました。鉄石が大和国(奈良県)で義兵を挙げるも事ならずして死んだ後は、半牧も幕府に追われる身となりました。秘かに帰郷して同志と往来し、尊皇攘夷を論じましたが、1868年(慶應4)に戊辰戦争が起こると、半牧も北越鎮撫の策を立てて活動しました。
しかし、長岡城が陥落したのちは長岡・会津同盟軍から追われる身となり、同志の雛田松渓、小柳春堤らが捕らえられると、難を避けて、見附元町の庄屋・近藤家に身を寄せました。半牧の実弟・善次郎がもたらした「松渓らが処刑された」という誤報を信じ、慶応4年6月14日早朝に、この地で自刃して果てました。行年41歳でした。
この地は1972年(昭和47)に史跡として見附市指定文化財に指定されました。 見附市教育委員会 (現地の解説板に加筆)

※南画:中国の南宋画に由来する日本的解釈の江戸中期以降の画派、画様。文人画ともいう。池大雅、与謝蕪村によって大成され、谷文晁、渡辺崋山らを輩出した。(Wikipediaを要約)

村山半牧 自決の地

村山半牧 自決の地 左手が見附市陸上競技場


村山半牧 自決の地


供養塔


供養塔

最後の供養塔のアップの写真。供養塔の背後に、見附市陸上競技場が見えます。つづいて、写真には写っていませんが、見附市野球場、テニスコートがあり、そのさらに先に見附中学校、見附市斎場があります。

村山半牧は歴史の本に載ったり、誰でも名前を知っていたりする人ではないですが、地域に秘められた幕末の悲劇を静かに物語る遺跡です。

<2023年11月23日 訪問>

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