荒金鉱山朝鮮人犠牲者供養塔
1943年(昭和18)の鳥取大震災で犠牲となった、荒金鉱山で働いていた朝鮮人労働者の供養塔です。
荒金鉱山について
荒金鉱山は、鳥取県岩美郡岩美町にかつて存在した銅鉱山で、岩美鉱山とも呼ばれていました。
旧日本鉱業株式会社によって採掘が行われており、銅の他に金・銀・銅・亜鉛なども産出していました。
698年にここで採掘された銅鉱が朝廷(文武天皇)に献上されたとの記録があり、記録上では日本最古の鉱山です。
1889年(明治22)に銅の露頭が発見されて以来、大きく発展しました。926年(大正15)には山陰本線岩美駅と岩井温泉・荒金鉱山を結ぶ岩井町営軌道も敷設されました。鉱山の繁栄の一方で、鉱山から流れ出た鉱毒は鉱山周辺の川を汚染し、魚の住めない「死の川」へと変えてしまいました。
1943年(昭和18)9月10日に発生した鳥取大震災で、大量の鉱泥を集めていた堰堤が決壊し、65名が犠牲となりました。
その後、1955年(昭和30)11月15日に閉山となりました。
朝鮮人労働者と事故の慰霊祭
1943年(昭和18)9月10日に起きた鳥取大震災の際に、大量の鉱泥を集めていた堰堤が決壊し、約43,000立方mの鉱泥が流出しました。泥流は、堰堤直下にあった朝鮮人労働者の飯場や荒金集落を直撃し、朝鮮人労働者とその家族28名と日本人37人の合計65人が犠牲となりました。鉱山労働者や地元住民が2ヶ月にわたって遺体の収容作業を行いましたが、現在も32〜33名の遺骨が鉱泥の下に埋まったままになっています。特に朝鮮人労働者の飯場は堰堤直下にあったために泥流の一番下に埋まっていると考えられ、発見された朝鮮人犠牲者の遺体はわずか2体のみでした。
1948年(昭和23)に日本鉱業株式会社によって、大震災の際の大事故の慰霊碑が建立され、地元住民たちによって毎年9月10日に慰霊祭が開かれるようになりました。
1972年(昭和47)以降は、「荒金鉱山に眠る、韓国・朝鮮人・日本人を祀る会」の関係者や地元住民によって慰霊祭が行われてきました。
1988年(昭和63)には関係者の努力によって、犠牲者の祖国を遠望する位置に慰霊碑が移築されました。
1990年(平成2)、鉱泥から掘り出されて地元の寺におさめられていた朝鮮人犠牲者1名の遺骨が、韓国の国営墓地「望郷の丘」(忠清南道天安市))に納骨されました。
1990年代になると、在日本大韓民国民団鳥取県本部と在日本朝鮮人総連合会鳥取県本部が共同で喪主をたて、朝鮮の伝統的儒教式に則った祭祀(チェサ)を行って、事故の犠牲者を慰霊するようになりました。1997年の55回忌からは5年に一度の共催となりましたが、「事故を風化させたくない」との思いから韓国民団が単独で開催する年もあります。
かつて鉱毒で汚染されていた河川は、現在は抗排水処理事業によって水質が改善され、地元住民の稚魚放流などの取組によって、サケの遡上が見られるまでに回復しています。
荒金鉱山朝鮮人犠牲者供養塔の位置
☆かつてWikipediaの同項目として新規投稿した文に加筆修正
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