申年がしん-鳥取市郊外に残る天保の大飢饉犠牲者の供養塔-
近世以前の日本では、災害や封建諸侯による収奪などが原因で多くの飢饉が起こりました。特に江戸時代に起きた次の四つの大飢饉を「江戸四大飢饉」と呼んでいます。
・寛永の大飢饉 1642~43年
・享保の大飢饉 1732年
・天明の大飢饉 1782~1787年
・天保の大飢饉 1833~1839年
この中で最も規模と被害が大きかったとされるのが「天明の大飢饉」ですが、鳥取県東部では「天保の大飢饉」を「申年(さるどし)がしん」と呼んで、その悲惨さが語り継がれていました。
鳥取県内にも「申年がしん」に関連した遺跡が残っており、鳥取市周辺に残る飢饉を物語る遺跡を訪問しました。
申年がしん
天保の大飢饉は前記のとおり、天保4~10年(1833~1839年)の足かけ7年にわたった大飢饉ですが、飢饉がいよいよ本格化した天保7年(1836年)が申年にあたっていたため、申年がしんと呼ばれています。
昔語りに残る申年がしんの悲惨さ
1975年(昭和50)に毎日新聞鳥取支局が編集し日本写真出版が発行した「むかしがたり」という本があります。当時、岩美郡岩美町田後(たじり)にお住まいだった山田てる子さん(1902~1983年)という主婦の方が、幼い頃におばあさんから寝物語に聞いた鳥取の昔話や伝説を毎日新聞の鳥取版に連載し、それをまとめた本です。
その中で、申年がしんの悲惨さが語られています。
その年(天保7)は前々からおかしい天気が続いていたが、その年にはいよいよひどくなり、ひな祭りの時分になっても雪が降り続き、田にも畑にも出ることができないでいた。五月になっても田の水に氷が張るような有様だった。
土用近くになっても、綿入れが手放せないような状態だった。この頃になってようやく田植えはしてみたが、稲にもならず、秋には一粒の米もとれなかった。木にも実がならず、口に入れられるものなら、木の芽・草の根など何でも食い尽くしてしまい、しまいには座敷に敷いた荒筵まで叩いて粉にして食べた。
村々の年寄りや子どもはやせこけてたくさん死んだ。さらに、どこからともなく大勢の飢えた人々が流れてきて、蒲生峠(がもうとうげ)を越しかねて、たくさんの人が行き倒れになった。河原には弔う人もないそれらの人々の死体が打ち捨てられていた。 (Wikipediaの「申年がしん」の項から転載)
申年がしんの推移状況
1831年(天保2)
鳥取藩領へ、隣国の但馬、播磨、美作から飢えに耐えかねた人々が多く入り始める。藩内の町や村にも、行き倒れや捨て子が数多く見られるようになる。
1833年(天保4)
邑美郡岩坪、気多郡母木(ほうぎ)・青谷、八東郡姫路、岩井郡湯村で相次いで大火が発生し、村人の大半が焼け出される。
12月5日、不作のため鳥取藩が在中(領内の各村)に2歩の御救米を施す。
1834年(天保5)
藩内暴風雨で洪水が発生する。青谷海岸に帆立貝が異常発生する。
1835年(天保6)
5月22日、藩内暴風雨で洪水が発生する。
1836年(天保7)
春から天候不順で雨が降り続き、田の水も温まらなかったため、田植えができない状態となる。
夏、邑美郡覚寺の狼庵に50人ほどの尼僧が集まり、法華経の加護を信じて祈る。
8月27日、異常な冷害による凶作のため、鳥取藩が在中に3歩の御救米を施す。因伯両国在方の難渋人を両国の全在方人口28万7千人中、約10万人と見積もる。
因伯両国の凶作による損害高が全石高42万石中、26万8287石に達する。
1837年(天保8)
この年飢饉のピークを迎える。1月、鳥取城下に多数の難民が食を求めて集まる。藩は城下に小屋を建てて難民を収容したが、極度の不衛生のため9月で閉鎖する。
4月、藩内に疫病が流行し、餓死者と合わせて死者2万人に達する。
1838年(天保9)
八東郡安井村で御救米を着服していた庄屋宅を47人の農民が打ち壊す。
1840年(天保11)
覚寺の狼庵の良卯尼(りょううに)が、法華経のさらなる加護と餓死者・病死者の冥福を祈って供養塔を建立する。
1843年(天保14)
播磨国赤穂の町人・吉野屋栄次郎が施主となり、餓死者・病死者の冥福を祈って、邑美郡丸山に飢饉供養塔を建立する。
(Wikipediaの「申年がしん」の項から転載)
鳥取市覚寺 天保11年建立の飢饉供養塔
鳥取市郊外の覚寺という集落の村はずれに、椎谷神社という集落があり、その入り口近くに石仏が寄せ集められた場所があります。そこは、狼庵(おおかみあん、ろうあん)という尼寺があった場所です。
1836年(天保7)夏、狼庵の庵主だった良卯尼という尼僧が50人ほどの尼僧とともに、法華経の加護を信じて祈りました。
1840年(天保11)夏、餓死を免れた良卯尼が、餓死者の冥福を祈り、再び法華経の加護を祈って建立したのが「大乗妙典千部供養塔」と記された供養塔です。
この場所は、かつては「たたるところ」といって崇敬されていました。申年がしんの悲惨な記憶が、こうした形で近年まで伝わっていたのかもしれません。
この集落の上に、多鯰ヶ池(たねがいけ)の脇を通って鳥取砂丘へと抜ける、細くて昼なお暗い旧道があります。その旧道のほぼ椎谷神社の真上のあたりにモーテルの廃墟がありますが、そこが「心霊スポット」として隠れた噂になっているようです。たしかに荒れ果てたモーテル廃墟なのですが、この都市伝説あたりも、申年がしんの悲惨な記憶が派生して作られたものかもしれません。
鳥取市丸山 天保14年建立の飢饉供養塔
鳥取城下の湯所町から北に向かう、山裾を通る細い道があります。この道は但馬往来(たじまおうらい)といって、鳥取の町から但馬国(兵庫県北部)に通じる街道でした。この但馬往来が旧国道9号線と合流する山の端に石仏が寄せ集められています。ここが「丸山の追分」といって、鳥取城下と在中(村)の境目でした。
先日公開した「旧丸山の火葬場跡」【鳥取県東部(因幡)の火葬場訪問・4】鳥取市の旧丸山火葬場跡|Yuniko noteでも簡単に触れています。
ここに、飢饉が治まった1843年(天保14)に播磨国赤穂(はりまのくに・あこう)の町人・吉野屋栄次郎が施主となって、餓死者・病死者の冥福を祈って建立した飢饉供養塔があります。
この丸山の追分は、覚寺地区の奥にある、因幡第一の霊場とされた摩尼寺(まにじ、まにでら)への参道の起点でもあり、道しるべの石地蔵や石塔も並んでいます。
こちらの石地蔵は、向かって左手に古い墓石が並んでおり、死者の冥福を祈る石地蔵ではないかと思われます。
この石地蔵が摩尼寺への参道を表す石地蔵で、表側には「右ハまにみち 是より三十四丁たじま山道 まにへかけれバ四丁のまわり 左ハたじまはま道」と刻まれています。
この念仏碑は、碑の横に「享保六年 湯所村住人 秋山六太夫」と彫られています。この前年、享保5年(1722年)に鳥取城下で石黒火事と呼ばれる大火が起こり、城下町はもちろんのこと鳥取城もそのほとんどが焼け落ちる大火でした。碑の仔細は不明ですが、この大火と関連があるのではないかと言われています。
宅地化が進む道端に静かにたたずむ石碑ですが、昔人の信仰や歴史の悲惨な記憶を静かに物語る遺跡です。
<参考文献>
・むかしがたり 著:山田てる子 版画:岸信正義 企画:毎日新聞鳥取支局 日本写真出版 1975年4月1日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県歴史散歩研究会 山川出版社 1994年3月25日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県の歴史散歩編集委員会 山川出版社 2012年12月5日発行
・丸山の追分の現地解説板 久松山を考える会、城北ふるさと塾 平成16年(2004年)8月吉日
・Wikipedia 「申年がしん」「江戸四大飢饉」「天保の大飢饉」
次回予告 幽霊薬-伝説が語る因幡の戦国時代・1-
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?