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岩常の耳塚

岩美郡岩美町の岩常(いわつね)にある「耳塚」を紹介します。
これは南北朝時代の戦死塚です。

はじめに、少し長くなりますが、耳塚の由来を知っていただくために必要な「観応の擾乱」と「山名時氏」について説明いたします。

観応の擾乱

観応元年(1350年)室町幕府初代将軍の足利尊氏と弟の足利直義の争いが起こった(観応の擾乱)。尊氏と直義の対立は、朝廷内の対立(京都の北朝と吉野の南朝)、公家と武士の対立も巻き込んで全国に波及した。
観応の擾乱は、正平7年(1352年)の足利直義の死で一応決着するが、その後も、室町幕府内の対立は全国の武士を巻き込んで長く続いた。
また、北朝と南町はそれぞれに元号をたてていた。その元号も一統されたり再び別々になったりしている。

山名時氏

当時、因幡国の守護を務めていた山名時氏は、当初は足利尊氏に従っていたが後に直義派に転じ、直義派で一大勢力をなした。なお、守護・山名時氏が南町方だったため、当時の因幡国では南町の元号が使用されていた。それにならい、ここでは「観応」以外は南朝の元号を使用する。
正平7年(1352年)の足利直義没後は足利尊氏に帰順するが、翌正平8年(1353年)に領土問題から足利尊氏=室町幕府と再び対立。たびたび京に出兵するとともに、幕府内の対立に乗じて領土を拡大する。
最終的に山名時氏が室町幕府に帰順するのは、正平18年(1863年)のことである。因幡国の守護は、時氏の三男・氏冬が任ぜられた。

岩常の耳塚

山名時氏が本拠としていたのは、岩常の二上山城とされています。
今は静かな田園地帯となっていますが、岩常の地はかつて因幡の首府でした。

正平10年(1355年)、領土問題で足利尊氏と対立していた山名時氏は5,000の兵を率いて京都に出兵し、室町幕府軍と戦った。しかし山名勢は侍84名、郎党263名もの戦死者を出し、因幡に撤退した。
この時に時氏は、戦死者の遺骸を持ち帰る代わりにその耳を切り取り、全員の名前を書いて、岩常の寺に葬ったと伝えられている。

岩常の耳塚
岩常の耳塚

戦死者の耳を葬ったとされる寺は今はありません。中央の石碑が耳塚ですが、これも元禄7年(1694年)に建立されたものです。

耳塚周辺
耳塚周辺
耳塚周辺

耳塚の裏手のあたりは、何らかの宗教施設があったような雰囲気を残しています。

耳塚周辺

この静かな集落が、室町時代初期から中期にかけての因幡の首府でした。

二上山城趾

二上山城趾

山名時氏が領国経営の中心として築いたとされています。尾根を削平して小規模な平地(なるち)を設けた古いタイプの城趾ですが、山頂近くには山陰地方最古の石垣が残っています。
戦国時代に入ってからも、近くにある荒金金山や三ヶ月銀山の抑え、但馬街道を抑える要衝として重視され、豊臣政権終了の頃までは使用されていたようです。
当時は「二上山城」ではなく、「岩常城」「岩常の城」「岩井の城」と呼ばれていたようです。

岩常の耳塚の位置

<参考文献>
・日本伝承大鑑 耳塚 耳塚 | 日本伝承大鑑 (japanmystery.com)
・因幡志 著:安陪恭庵 世界聖典刊行協会 1978年(昭和53)9月14日発行
・探訪ブックス・日本の城6 「山陰の城」] 二上山城の項執筆:高橋正弘 1989年(平成元)10月10日発行 
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県歴史散歩研究会 山川出版社 1994年3月25日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県の歴史散歩編集委員会 山川出版社 2012年12月5日発行

次回予告 摩尼川の継子落としの滝

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