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子どもと私と空間は同等で上等🧸


自分がやたら「フェミニズム」とか「シスターフッド」とかを意識しすぎて高圧的なモードになっているのかなとか考える。

自分とフェミニズムとの距離感については、常に測りかねている。

「アイデンティティだ!」と勇ましく思う(しかない)時もあるが、そのような単純なことではないということもよく知っている。

アイコンやファッションとしてのフェミニズムやシスターフッドでもいいと思っているのは、形などはどうでもいいと思っているからかもしれない。


誰にも    見せ なく ても 
キレイ なもの は キレイ
もう 知ってる から
誰にも 聞か なく ても 
キレイ なもの は キレイ
もう 言ってる から

宇多田ヒカル『PINK BLOOD』


妹の家に泊まった。

妹は本当に育児と家事を頑張っていた。

「自分で決めた」と言うには厳しすぎるルーティーン。子どもの養育について、社会や文化や歴史的に「望ましい」とされている方法や時間帯、付き添わなければいけない頻度は過酷すぎないか? 
そのわりに、夫は会社の拘束からまったく自由ではない。
生物としての欲求に沿う育児や家事、と言うよりもずっと社会や文化が影響し、そのくせ支援はほぼ皆無&放置で、ワンオペ自己責任を要求してくるだけじゃないかと思う。

時々は赤ちゃんや子どもが一食や二食ぐらい抜いたり、昼寝の時間がずれこんだり無くなったり、昼夜逆転したり、そのうち元に戻ったり、歯磨きをしなかったり、家の中がぐちゃぐちゃだったり、お風呂に入らなかったりしたって普通じゃないかと思う。

分刻みのタスクに追われすぎて、それをこなすことしかできない。

それも、「できて普通」の世界線。

お母さんを追いこんでいるのは誰?

遊んであげることもままならない。世話をしているか、疲れすぎていて気付けばうたた寝。


自分がしたいことを、子どもの世話と同等かそれ以上に尊重してやり通す、時には子どもより優先したとしても👍️
ということに対する、「それが普通でしょ」っていう共通認識が必要だと思う。

そうでないと、本人のみが強い意志を持つしか自分を保つ手段がないじゃないか。


たとえ子どもが眠りそうでも、私はradicoでフワちゃんの元気で騒がしいラジオを流し続けたかった。

そんなのは非現実的なことなのかもしれない。
まずは寝かせることに尽力して、後からゆっくり聞けばいいじゃんその方が効率的と言われるのかもしれない。でも。
子どもがしたいことと私のしたいことは同等のはずだ。それは別に、怒ったり競ったりしているのではなく、普通に思うことだから書いている。
ただでさえ音量を低くしてよく聞こえないでいたフワちゃんのラジオを、妹が勝手に消すわけじゃなくて「少し小さくするね」と断りながらほぼ無音になったことについて、それはいいけどそれはつらいなと感じた。
自分のことも相手のことも子どものことも空間のことも大事にしてくれないと困る。そういう姿勢で「無し」にされている自分についてはどうしたらいいの? と、これは妹に対してではなく世に対して思っているのだと思う。

うるさくて元気で明るいフワちゃんのラジオは、放っておいたら二歳児にエンドレスで『おさるのジョージ』か『パオパトロール』の録画再生を要求され続ける空間を、何か別の、まっとうで馴染み深い私の居たい世界に一気に変えた。そして、女の子の楽しくゲラゲラと笑い、歌ったり喋ったりする声は、何を言っているかわかってもわからなくても、赤ちゃんにも子どもにもよさそうだったんだけどな。

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