最近のメンタル備忘録

最近見たドラマは、「Euphoria season2」と「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」
一つ目は、どぎついアメリカのティーンたちの闇を映し出したドラマ。2つ目は亡くなったお父さんとダウン症を持つ弟、大動脈解離の後遺症で下半身麻痺で車いすに乗る母を持つ、岸本奈美さんのお話し。

一方はアメリカ社会の闇にスポットライトを照らしながら、もう一方は困難がいくらあっても共に明るく生きる家族を描く。真逆のようで、なんとなく両者共通した点が多い気もする。

最近読んだ本は、最近出版されたちくま新書の「ジュディス・バトラー」。著者である藤高和輝さんは、クィア理論をクィアな手法で描く気鋭の研究者の方。とても面白そうなかたで、私はいつかちゃんとお会いしてお話しがしたい。あとは、私の大学院の社会保障の先生から教えてもらった本。同じくちくま新書の「結婚の社会学」(著者:阪井裕一郎)で、いかに現在の普通の家族とされるものが、普遍的なものではないかについて歴史をたどって論証している。
それと、「クィアスタディーズをひらく2」最近私はクィアスタディーズに興味があるから、その入門書として読んでみたが、クィアスタディーズの先行研究が豊富に踏まえたうえで、結婚や家族、天皇制などの日本のLQBTQ+をめぐる実態をラディカルな視点から議論がなされていた。

そして私の近況報告をすると、バッサリ髪を切った。とてもすっきりして嬉しい。ただ、生活状況はあまりよくない。ずっとメンタルが崩壊しそうで、その瀬戸際をゆらゆらしている感じ。悲しくて突然泣き出したりもするし、叫びたくなる。だから、ぎりぎりでも、溝に落ちないように生きている。

でも、ギターをちょっとずつ練習している。ちょっと弾けるようになると調子に乗ってしまうが、まだ人に聞かせるには時間がかかりそう。練習あるのみ!

簡単にまとめると、ぎりハッピーに生きている。何時に起きても、ご飯は食べたいものを作ってたべる。すると、こんなうまいものを作れるなんて天才だ!と一瞬でも思える。でも次の瞬間には、私は料理なんかにこんなに時間を使ってしまって、だめな人間だ。生きている意味なくないかとか思うから、つらい(笑)

でも、毎日ちょっとの瞬間でも自分の心が躍るからまだ大丈夫。それとバイトにはちゃんと行っている、えらい。そんなバイトもそろそろ変えようかなと思っている。本や英語に関わる仕事がしたい気持ちが強くなってきたからね。

鬱の症状が時たま出る私にとって、何が一番困るかと言うと、そんなに気乗りしない友達の誘いをどう断るかという問題。自分で答えを出せない時には検索をしてしまうデジタル・ネイティブ世代の私だけど、メンタルがつらい時に、相手を傷つけずに自分の状況を正しく伝える方法は、検索しても出てこなかった。ただ、出てきたのは、鬱の友達や家族にどう接するのが一番良いかというページばかり。

ああ、鬱を持っている人がそれを身近な人にわかってもらいたいのに、今の状況を誰かに表現する言葉とそのための知識や知恵はワールドワイドなネットにも蓄積されていないんだな。とか思った。

鬱だけじゃなくて、問題を抱えている人に対して、かわいそうとか、誰が一番つらいかみたいなことを世の中は推し量ろうとするけれど、当の本人に必要なのはそんなことじゃないと言いたい。本人に意思はあるし、伝えたい感情や適当なニーズがあるんだ。なにもできないわけじゃない。

今をぎりぎりでも生きる私が、孤独でどうしようもない私が、ちゃんと生きられるために、力になってくれる環境が常にそばにあればいいなと思う。私だけじゃ無く、必要なすべての人にね。

社会では、それを家族の役割だとする。もちろん鬱になった本人の責任とかいう差別的な意見も大いにあると思うけれど、そういう人は、自分だって簡単に鬱になるものだってことに気づいた方がいい。

ただ私は、家族の話をするときには、話の内容をいくつかに分けたほうがいいと思っている。例えば、セクシュアリティの問題。これは異性愛主義の問題だ。でもこれはあとで少し触れる。私がとくに話したいのは、ケアに関すること。社会に生きる人々のケアを主に家族が担うという家族主義について。家族主義ってそんなにいいものかとかよくないとか言いたいわけじゃなくて。でも、なんでも家族だけで抱えたら、いつの間にかどうしようもなくなる時が来るってことを言いたい。

前者のセクシュアリティについて、簡単に自分の意見を表明するとしたら、家族そのものについては、いろんな形がある。家族は血縁関係に留まらないのだから。私は家族を選べるものだと思う。そして、家族との関係も日々変わり得るものだと思う。だから、どんな人とでも家族という親密な関係性を安定的に構築できる環境が必要だとおもう。それではじめて、私たちはだれと共に過ごし、関係性を築き上げるか考えることができるのだと。もちろん、一人で生活するという選択が可能なのは大前提だ。

「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」からすごく多くのことを学んだ気がする。生きることは一人で行うことではないということ。サポートの意味。ダウン症の弟さんが立派に生きてきた姿に感動し、自分との向き合い方を考え直す奈美さんの考えは、自分を否定しがちな私にも必要な視点だった。それに、岸田さん一家みたいに、これでもかというほどの問題を抱えていても、前を向いて家族の関係を自分たちなりに作り上げ、周囲から必要な支援を得られることができていたら、それ以前の生活とは境遇が違っていても、同じように笑って生きていけるのだとおもう。

自分の話をすると、私の家族はそんなに安定したことがなかった。この間私が見てきたドラマの主人公たちはほとんど父親と離別や死別をしているが、私の家族は一人もかけていない。でも今も、家族の問題は山積みだ。最近の問題だと、私と妹との関係がある。

妹は、月に2回ぐらい、生理痛や体調不良でベットから立ち上がれない日がある。私はそのたびに妹に対し、必要以上にケアしようとするから、あとあとイライラしてしまう。なぜ妹にそんなに自分の時間を割かなければいけないのか。私にもやるべきことがあるのに。私が体調が悪い時も、なぜか妹も体調を崩すから、だれがちゃんと家のことをして、私の面倒を見てくれるのだろうかと妹に苛立つ。

でも妹は、人に迷惑をかけることより自分の体のことの方だ大事だという具合の態度でどしっとしている。だから一層腹たちもするが、とても羨ましくも感じる。純粋に強い人だなと思う。一方の私はあまりにも自分を優先しなさ過ぎて、人を傷つけないことばかり考えるせいで、自分を大事にしてあげられない。しかも、結果的に妹に八つ当たりしたり、友達のお誘いを断るから、人にも迷惑をかけている。こういうジレンマを日々抱えている。

正直、今の現実世界で、セルフラブは不可能に近いと思う。まず私の場合、消費主義的なセルフラブは金がなくてできない。というか金が入ったところで、お金で解決するセルフラブってなんだろうと思う。それと精神的なセルフラブは、福祉があまりに家族責任なせいで、だれか(主に女)が背負わなければ成り立たない。だから、とても悲観的になる。

どうしようもない怒りを感じることもある。家族に向けるのも間違っているともわかっている。でも漠然とした社会に怒るにはあまりに無力だ。問題をすぐに解決したいなら、大学行かないで、フルタイムで働けばいいだろう。でもそれでは意味がない。

こういう問題を考えたくて、フェミニズムをやっている。フェミニズムは生きるための理論だと思ってる。この理論をこの先も積み重ねていくことが私だけじゃなくて、私が想像もできないような境遇で生きてきた人や私の隣で暮らす人たちの生活が少しでも生きやすくなれば、それほどやりたいことはないと思っている。

私はやりたいことやっているけれど、それでお金を稼げるほどの力はない。それに、私が研究しているジェンダー・セクシュアリティ、フェミニズムはどの学問領域でも周辺化されてきた。私が先行している経済学では、特にそう。

この前、新聞社のジェンダー関連のイベントに参加したときに痛感した。ああ、ここでは”うけるジェンダー”しか通用しないんだ。キラキラした世界で活躍する女性たちの現実は厳しいけど、賢い選択をしていこうよ、みたいな。でも、”エリート・フェミニズム”というにはあまりに一辺倒な批判なようで、それも違う気がした。

たぶん、その世界で生きる女たちは、そうやって自分が生き出来る選択肢を見つけようとしてきたんだなと。それを否定することはできないと思う。

例えば、もっと周辺化された人たちのことを考えられないのかと簡単に批判することはできる。でも、それも違う気がする。だって、周辺化された人たちは、ジェンダー的にもマイノリティだし、レイシャル・アイデンティティも劣等とされてきたし、障害も持っているから、最も優先されるべき、モデル化されるべき存在だと表象するのも、本当に私たちがするべきことなのか。

やっぱりそれも違うと思う。一方で、かき消されてきた存在を可視化することはものすごい意義がある。なぜなら、否定され見えなくされてきた人たちの存在を、ここで生きているとちゃんと明らかにするのだから。そして、それは”わたしたち”や”女”の境界線を自らが広げることになる。でも、今度は私たちが誰を救うべき対象とするのか選別したにすぎず、本当の個人としての一人ひとりの状況は違うことを、一つのモデルに集約したり、みんないろいろあるみたいに話を収斂させてしまうのではないか。

誰かが、日本の問題は、「むずかしい」で片づけることだと言っていた。なんでも「むずかしい問題だよね」というと、一見考えているようで、なにも考えずに問題をやり過ごせる。この意味は、日本人は、問題を知ったうえで議論しようとするのではないく、知らない、知る必要のないと線引きをして、これ以上足を踏み入れないようにするかららしい。

日本で、いくらジェンダー・セクシュアリティがあらゆる領域で広がっても、問題の本質を考えようとする人はどのくらいいるだろう。

例えば、労働の授業に出ている学生が、女性はとても大変な状況にいる。なぜなら非正規の6割は女性だから、雇用を安定化しなければならない。もっと女性が働けるようにするために、育児環境を整えなければならないという人はいっぱいいる。未婚化する若者のために、賃金を上げなければならないとかもよく言われる。でも、性と生殖の権利を保障することや、セクシュアル・マイノリティーやレイシャル・マイノリティーがどのような生き方をして、なにが不足しなにが必要なのかについて、ちゃんと議論しようとはほとんど言われない。

ここで常に線引きがなされる。経済学はとても明快に線引きする。経済成長に貢献するか否か。それ以外は、基本的に非合理的な文化的問題ゆえに、意味をなさないとされる。だから、考慮されてもいいしされなくてもいいということだ。経済学は個人の効用の最大化を目指す学問らしいが、この個人に含まれる対象は、かなり限定されていることがこの半年でよくわかった。この線引きが最も強力なものだとしたら、フェミニズムは内側を内省しながらも、そのうちのつながりは、外と違う関係性や価値観を構築し共有していくことが、最も強力な戦略になると思われる。

その点で、インターセクショナリティという概念の有効性を感じる。今回は、インターセクショナリティをこれ以上掘り下げたりしないが、「ジュディス・バトラー」での藤高さんの説明はフェミニズムが構築してきたという歴史的経緯を、その意義と共に丁寧に正しく理解することを促してくれた。

私がフェミニズムにちゃんと触れたのは、大学4年生の時。それまでもジェンダーの授業を受けたことはあった。でも全然わからなかった。刺さらなかった。だって、私が本当に一緒に生きてきた人たちの状況を変えうるものだとは思えなかったから。

初めてちゃんとバイトしたうなぎ屋で、一緒に働いていたのは50代以上の女性たちだった。軽度の知的障害を持つ人、夫と死別した人、離婚して一人で子供を育てる人、若い時からずっと飲食店で働く独り身の人。そこでは大人の女たちのいじめが日常茶飯事だった。「この人を生み育てた親の顔を見てみたい」と大人が陰で実際に言っていたのが衝撃だった。昼ドラとかでしか聞いたことのないセリフだったから驚いた。この人たちはどれほど子供じみたことをしているのかと、とても嫌になっていたものだ。でも、コロナウイルスがはやり始めたとき、あるパート女性が私に一言言ってきた。「あなたがコロナになったら、職場は休業になるから、私は生活できなくなるのよ」といわれた。そして、同時に分かったのは、この店のパートはだれも社会保険に加入されていなかったという事実だ。少なくとも、5年以上はここで働いていた。ちなみに、この時期、私のバイト先では、マスク着用は禁止されていた。飲食店はお客さんへの接客が従業だから、マスクはしてはいけないと説明された。この考えは全く理解できなかったが、3か月近くマスク着用は禁止されていた気がする。

このバイト先が私が初めて学校以外の社会と密接にかかわった場所だったから、とてもよく分かった。ど田舎生まれの私ですら、女性活躍という言葉で、今の時代女だって何にでもなれると言われ育ってきた。私は田舎では珍しく親が教育熱心で、勉強ならいくらでも頑張れば、協力してやる言われて大学に進学できた。うちの家訓らしきものとして、勉強は才能がいらないと言われたから、私もなんだか嬉しくて勉強が好きだった。大学に来て、私はこの先も頑張れば何にでもなれると思った。でも、あのとき私のそばにいたパートさんたちは、その女に含まれてはいなかった。

ちょっと話は変わるけど、たとえば、わたしみたいに恋愛感情は持てても、性欲がないアセクシャル(私の場合は、異性愛者なのかもいまいちわからない、どちらかというと無性愛者)は、「少子化」なんていう問題の立て方自体にとても窮屈さを感じる。こういう問題が出ると、常に今の時代は、女も子育てと仕事を両立できるといわれるが、そんなに頑張れる人はどれだけいるのか、あるいは私みたいに、異性愛規範を窮屈に感じる間は、まったく社会の役に立たない、意味のない存在だったりするのか?とかも考えてしまう。というか、自分の生殖が都合よく必要だと言われたり、管理されたりすることにも苛立ちを感じる。

こうしたジェンダー・セクシュアリティをめぐる線引きが常日頃揺らぎながらも強固に張り巡らされていることを感じながら生きていると、時にその力に押しつぶされそうになったり、いやいやそんなのおかしい!私はそういう現状を変えたいんだ!みたいに奮起したりもする。

そうやって私のメンタルは日々、海岸で子供たちが気まぐれにつくる砂のお城みたいに、一瞬で波に崩されたり、たかーくたかーく積み上げられたりしている。

なんともしんどい。でも、たまに、面白い研究者や理論に出会えると、またエネルギーがグググっとタンクを満たして、前に進む勇気をくれるから、やっぱりやめられない。

なにを話したかったのか、ちょっとわからなくなったけれど、同じような感情を持つ人がいたら、フェミニズム、ジェンダー・セクシュアリティの理論のこともっと話したい。考えが多少違くとも議論できることは楽しいことだと思うから。また長くなったけど、忘れる前に書き留められてよかった。

またね!



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