私
私が七歳のときに事故で両親が死んだそうです。
優しかった父と母の記憶……母親の作ったハンバーグが大好きだったとか、父の肩車で庭先の木の葉に触るのが好きだったとか、そんなものは私にはありません。
両親が死ぬ前までの記憶なんていつの間にかなくなっているんです。小さい頃はあったのかどうかもわからないです。
よく「小学生だったなら覚えているでしょう」「思い出を大事にしなさい」と言われました。覚えていないからわかりませんでした。
かわいそうにかわいそうに、と親戚に言われました。
私がどこで暮らすかについて大人たちが喧嘩している葬儀後の和室が、私の一番古い記憶です。
父の兄の家に引き取ってもらいました。そこには、中学生のお兄ちゃんがいました。
お兄ちゃんは育ち盛りだからということで、私とお兄ちゃんのご飯の内容は全然違うものでした。
お兄ちゃんは白米とトンカツ、キャベツ、お味噌汁とアジフライ、ひじき煮、食後にはメロンがありました。
私は、毎日、ご飯にお味噌汁をかけたものだけを食べていました。おいしかったので、そんなに嫌ではありませんでした。
ある日、私がリビングに敷いたお布団で寝ているとき、お兄ちゃんが「一緒に寝よう」と言ってくれました。
すごく嬉しかったです。おじさんとおばさんに比べて、お兄ちゃんはとても優しかったので、甘えたくなりました。
頭を撫でてくれるのが気持ちよかったです。そんな夜が何日か続いて、私からお兄ちゃんの部屋に行くようになりました。
「ヴァギ菜ちゃん、かわいいね」と言われ、本当に嬉しかったのに、アソコを触られたとき、得体の知れない怖さに襲われました。
これはいけないことだってすぐにわかったのに、お兄ちゃんに嫌われるのがいやで、何も言えませんでした。
にちにちっと指が入っていくのが痛かったです。じっと観察をされたり、舐められたり、日に日にあからさまになっていきました。
それが、おじさんとおばさんに知られてしまったのでしょう。
「息子は受験で大事な時期なのに、たぶらかさないで。気持ち悪い」と言われました。
「明日、偉い人が来るから、施設に行きたいと言いなさい」
おじさんから言われた言葉にも、従わないといけないと思いました。
私は他人の家でタダ飯食いをしているわけなので、これまでご飯を食べさせてくれただけでもありがたいこと。
そんな恩を受けているのですから従わないといけないのです。
今考えると、そうやって毎日「恩」を売ることばかり言われていたんです。
いい子にできない自分が悪いから施設に行くんだと思っていました。
児童養護施設は、あまり綺麗とは言えないところでした。誰かが暴れた跡みたいな壁のヒビをよく覚えています。施設での暮らしはよく覚えていません。
私は、中学生になるときに養子として受け入れてもらえることになりました。
やった、やっと私を子どもとして受け入れてくれる家がある。私を必要としてくれる人がいる、と思って、嬉しくて踊り出しそうでした。
面会したご夫婦は穏やかそうで、高そうな服を召していて、言葉遣いも綺麗でした。
私は、そのお家に行くまで、自分の言葉遣いが本当に綺麗かどうか、図書館の本を読み漁って勉強しました。気に入られないといけないのです。
今度はちゃんとしないと、また捨てられてしまうと思いました。
私立中学の制服や何やらを全部用意して待ってくれていたお家は、とても大きかったです。
赤い屋根の、煉瓦造りみたいな洋風の大きな一軒家でした。
私なんかがこんなところに住んでいいのか不安でした。
家の外観をを見せられたあと、まず最初に美容院に連れて行かれました。
施設の人に適当に切られた髪を、綺麗にカットしてもらい、自分でも見違えるくらい可愛くなれました。
美容師さんにも褒められ、新しい両親にもたくさん褒めてもらいましたが、いざ家に入ったら、あまり喋ってもらえませんでした。
その家には、私より一つ上のお嬢さんがいました。
テーブルに広げられた夕食は、誰にも差がなく、とても豪華でした。もちろんすごくおいしかったです。
けれど、新しい両親が私に会話を振ってくることはありません。
実の娘にばかり「おいしい? まだ食べられる?」と、熱心に聞き、学校であったこと、宿題、塾の進捗など、丁寧に会話していました。
私は、目の前で家族愛を見せつけられ続けました。
私が欲しがっていたものが目の前にあるのに、なぜかテレビの向こう側で見ている感覚でした。
私もそこにいるし、同じものを食べているのに、いつもいませんでした。
養父の仕事関係の人が来たとき、実の娘とともに紹介されました。
「ああ、この子が養子の」
「養子を取ることほど社会貢献はないよ」
「素晴らしい」と褒められている養父は、
「家族のかたちはたくさんありますしね、僕は幸せ者です」と言っていました。
「きみも、よかったね。こんな幸せに暮らせて。感謝しないとね」
「はい。すごく幸せです。感謝しています」
私はきっとオウムになったのだと思っていました。求められている言葉を発するだけの動物なのです。
だから感情も何もありませんでした。
何も感じない方がいい。
幸せを知らなければ不幸も知らずに済むと思っていました。けれど、私が自由を知るときがありました。
中学二年の歳に同級だった男子に、可愛いと言われました。そうなんだ、私は可愛いんだ。初めて知りました。
大人の世辞ではない、本心からの可愛いを聞いたのは初めてだったのです。
恋を知るのは簡単でした。その彼もあまり幸せな家庭ではなかったのです。
母子家庭のオンボロのアパートで一人、カップラーメンばかりを食べていました。母親は水商売をしていたようです。
初めて食べたカップラーメンは、びっくりするほどおいしかったです。
一緒に食べる相手が好きな人なら、どんな物でもおいしいと知りました。
彼は私を可愛い可愛いと言ってくれるので、もっと気に入られたくて、女を使いました。
中学生の男の子が何を求めているのか、私は知っていたのですから。
学校が終われば家に帰らず彼の家に行き、セ○クスばかりをしていました。
お互いに初めての行為で、やり方もよく知らずに二人だけでいろんなことをしました。
彼のものを舐めると喜んでくれます。気持ちいいと言ってくれると、私が求められていることがわかり嬉しくなります。
今、この瞬間は私は絶対的な存在になれるのでした。私のことを好きと言って、求めてくれることがこんなにも幸せなんて、知りませんでした。
家に帰るのは夜十一時くらいになっていましたが、養父母は何も言いません。
私の存在はそこでは無になっていたのです。けれどもう、そんなのも苦じゃありませんでした。
私には、孤独を共有できる彼がいたので、人生は素晴らしいと思っていたのです。
けれど、素晴らしい瞬間の連続は、ふた月ほどで終わります。彼に別れようと言われました。
彼には、新しく好きな女ができたそうです。
「そうなんだ。わかった。じゃあね」と、私はとても素直な気持ちでお別れできました。
だって怖かったのです。
幸せの向こう側に何があるのか知らなかったので、終わりが来る瞬間にずっと怯えていました。
二ヶ月の間、私に幸福を教えてくれたことだけで、大変な激震でしたから、また次の幸せを見つければいいと思いました。
私のことを好きと言って、求めてくれる男の人がいれば、それでいいのです。
セ○クスをすれば、男の人は私を求めてくれる。それを知っていた私は、SNSを使い、男の人と出会いました。
知らない人ですが、怖くありませんでした。私のことを可愛い可愛いと言ってくれるのです。
そして身体を触り、求めてくれました。また、私は必要とされている。
相手が一人ではまたすぐに虚しさを迎えてしまうので、何人もの男の人と会いました。
高校生になったころ、家にいてもいいと言ってくれる人がいたので、彼の家で夜を過ごしはじめました。
養父母に探されることはありませんでした。
「幸せ」と私が言うと、彼は決まって頭を撫でてくれます。私は自分から服を脱ぎ、彼のものを扱き、胸で挟み舐め挿入して、自分で腰を振るのです。
「ヴァギ菜、すごい……」
「ねえ、気持ちいい?」
「気持ちいいよ」
「いいよ、じゃないでしょ」
「気持ちいいですっ……」
彼の性欲を、私がコントロールすればいいと思いました。
私から逃げられないように、私なしでは生きていけないように、男の浅ましい欲を私が制御するんです。
私の欲だって十分浅ましいかもしれないのに、そのときは何も考えていませんでした。
とにかく抱きしめてもらい、一緒に寝てもらい、いていいんだよと言われることが何より大事でした。
一ヶ月も経たないうちに、いつものように、仕事から帰ってきた彼の腕を引いて激しくキスをしようとしたところ、「ごめん」と言われました。
「何が」
「もう……出てって」
なんで、と言いそうになりましたが、やめました。
頭もよくないし、愛し合い方も知らない私は、永久の幸せを持つことはできないと気づきました。
彼の家を出て、泣きながら歩きました。
住民票上の帰る家はあるのに、私の家ではないのですから、どこに行けばいいのかわかりません。
どうしていいか分からない私は友達に相談しました。
「家に帰って、今まで帰らなかったことを謝って、成人するまではちゃんと家に住んだ方がいい」
そんな感じのことを言われました。
その人は成績が良い人だったので、信じました。
言われた通りにするのも、怖くありませんでした。
謝った結果、養父母に怒られたって、追い出されたって、仕方がないことだから。
私には結局、幸福は似合わないと知れるから。そしたら、多くを期待しなくて済むから。
ちゃんと帰って謝ってみると、養父母は「成人するまではウチの子としてちゃんとしてほしい」とだけ、言っていました。怒られることはありませんでした。
「どこに行ってたの」と、抱きしめて泣いてもらえるかな、なんてこっそり思っていた自分を殴りたくなりました。
感情が動くほどの興味を持たれていなかったのです。成人した瞬間に、その家から出ていきました。
けど、いいのです。
今の私は、Twitterを通してとても幸せ。顔も知らないフォロワーのみんなは、私を承認してくれていると思えるから。
私が私であることだけでいいんだって思えました。
本当にすごいことだと思っています。だって、相手の顔色を伺いながら言葉を選んだりもしていません。とにかく私が思ったことを言っているだけで、見てくれる人がいる。
いつか私に本当の家族ができたとしても、それが終わってしまうときは来ると思います。
でも私は、Twitterのみんなに、生きてることを認められたみたいに思っているので、これから何があってもきっと大丈夫だと思っています。
勉強もできないし、取り柄もない私だけど、いつもありがとう!
Twitterを始めて、フォローをしてくれる人がこんなに増えて、私は初めて、心から笑えたんだよ。
歪んだ承認欲求だと笑われちゃうかもしれない。けど、私はとっても幸せだから、自信を持っていきたいな。
これからもよろしくね。
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