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フラストレーションを道標に

フラストレーションを使う?


ここ最近のプロセスの中で、自分の中のイメージが大きく変わったのは「フラストレーション」の捉え方だ。

noteの最初の投稿生きるために表現するで、光と闇について友人からもらったヒントを言葉にしてみた。

この世界はバランスであり、霊性から見れば光も闇も本当は無いのだけど、人間の目線から見る光と闇があって、そこから見ると闇を悪いものと思い込んで隠し、光でいようとしすぎるところがあると。

そして、人から見ると目を覆いたくなるような闇の面も、霊性から見ればただの自分の生命力・エネルギーであって、そこを追いやるということは、自分の生命力自体を追いやるということ。

こんな話の流れで出てきたキーワードは「フラストレーションを使っていく」だった。

人は「怒り」だとかなんとか、色々レッテルを貼りたがるけれど、それはただの「フラストレーション」として、使っていくといいと。

え?使っていく?その感覚が私にとっては新鮮だった。


シンプルな世界 - 分離か一体か


例えば一言で「闇(人が闇だと捉えているもの)」と言っても、人の数だけ色んなものがあると思う。

怒りとか、破壊的なものとか、怨念のようなものとか、狂気だとか、トラウマだとか、嫉妬とか。

名前を付けたり、分析したりし始めると、なんだかとても複雑な問題があるように感じてしまうのだけど、

シンプルに、人は「一体感」を求めているし、そこに心地よさを感じていて、「分離感」を避けたがっているし、そこに不快感を感じている。という話だった。

そして分離感を感じた時に感じるのが「フラストレーション」だと。そうやって眺めてみると、とてもシンプルな世界に思えた。


フラストレーションを抑圧する


結局はその、フラストレーション自体の不快感が耐え難い為に、もしくはフラストレーションによって引き起こしてきた「問題」をまた引き起こすことを避ける為に、

フラストレーションを「悪いもの」と自覚的にも無意識的にも判断して、感じないように抑圧していく。ということ。


私自身のことで言えば、「一体ではない」という感覚への拒絶反応たるやすごかった。

そういう時に湧き上がるフラストレーションというのは、ものすごいエネルギーで、例えば20代の頃なんかは、たくさんの人と過ごした後に帰宅すると、発狂というか絶叫というか、「わーーーー!!!」と泣き叫んだりしていた。

もちろん、パートナーと大喧嘩になるのも、そういうところから。「繋がり、分かり合うこと」への強い思い、純度への拘りがあって、そこを強く求めてきたなと思う。

けれど、そのフラストレーション自体が苦しく、そしてあまりに問題を引き起こしてしまう為に、私はフラストレーションに「悪いもの(=無くさないといけないもの、あると未熟で恥ずかしいもの)」というレッテルを貼った。

はっきり覚えているのは、パニックになる半年前。それらを強く強く閉じ込めたことを覚えている。

「こうと決めたら絶対にやり抜く」という自分の性質の賜物(?笑)だと思うけれど、それだけ爆発力のある強いエネルギーを「無きものにして見せる」というのは、どんだけだよと、今は思うけれど。(その時はそれしか道が無いと思ったんだよね)

そんな「実際あるものを無いように見せる」なんていう暴挙は、もちろん長くは続かず、半年後に私はパニックになった。


フラストレーションは生命力であり道標


結局、フラストレーションを抑え込んで手に入れる「偽りの一体感」からは、感動は生まれない。

フラストレーションを抑圧して、なんとか人と繋がっていこうと努力してみても、空虚感が訪れる。

フラストレーション自体もかけがえのない生命力なので、抑圧すれば生命力自体を抑え込むことにもなってしまう。

なんだか虚しいな、楽しくない、喜びも感じない、何がしたいのかわからない。なんていう風になっていったりもする。

じゃあ抑圧しないでいるにはどうしたらいいか?という疑問に対して、最初に書いた「フラストレーションを使っていく」という友人の話がとてもヒントになった。

フラストレーションは悪いものではなく、「自分がどう生きたいのか」ということを教えてくれるものなんだ、と。

なんかね、視点が変わるって本当にすごいこと。「悪いもの」と思っていたものが、「人生の道標」だなんて。ぐるんとひっくり返ったような感覚。

でも、もちろんすぐに、フラストレーションが来て「わーい!」なんて呑気に迎え入れられる訳でも無いから、とっても不快感も伴うんだけど、

それでも、目を覆わずに、ざっくり捉えて終わらずに、自分を責めたり相手にぶつけるでもなく「道標」にするって、なんてニュートラルなんだろうって。

「私は何が嫌だったの?」「じゃあ、自分はどう生きたいの?」と、丁寧に紐解いて、糧にしていけるなんて希望だなぁ〜って私は思うのです。(もちろん、慣れないことなので、時間をかけて、観察の練習中であります)


メッセージを受け取り生きていく


こんな風に観察していくと、フラストレーションというのは、自分がどう生きたいかというメッセージでもあり、命の願いのようにも感じられる。

そして、以前にも書いたことだけど、「病はメッセージ」である、というのも、なんともニュートラルな感覚だ。

結局、フラストレーションや病だけでなくすべてはメッセージだと思うのだけど、

やっぱり、美しい、心地いいと感じるメッセージは受け取りやすいし、不快感を伴うフラストレーションや、症状に引っ張られやすい「病」は、メッセージとして受け取るのが難しいなと私は感じる。

だからこそ、そういう感覚でフラストレーションや病を眺めている人に触れるというのは、今、本当に助けになっている。



パニックの始まりから5年、色んな時を経て、もちろん今も苦しいと思う瞬間はたくさんあるのだけど、それでも「この経験が無かったら」と思うと(以前の生き方のままだと思うと)ゾッともする。

病のような形をとるものに触れる度に、生き方や視点を広げざるを得ない。どうにもそれまでの生き方が通用しなくなる。そのおかげで、今の自分があるなぁと思うから。

そして今回の2ヶ月を経ても、それ以前を振り返ると、またそれも同じように思う。きついな〜と思う日もあるけれど、広がっていく視点、新しい表現への出会い、この経験が深めてくれた「人」との繋がりは、新鮮な驚きをくれる。

だから、この経験を含めて、私は今ここで、今できることをしながら、ただただ日々を紡いでいく。

自分の感性をどこまでも信頼して、同時に、生命を支えるものへの畏怖の念を持ちながら、「どう生きたいか?」というメッセージを受け取り続けて選択して生きていきたい。

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