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第5話:有明月と彼の匂い


ぽつ...ぽつ...うぃーん。

ぽつ...ぽつ...うぃーん。


フロントガラスを雨粒が滲ませる。それらを左から右へ、ワイパーが追いやっていく。

生憎の雨。
早朝から雨模様だった空は、予約していたレンタカーに乗り込むと同時に、雨粒を降らせた。

旅行の日に雨が降れば、それはそれは気分が落ち込むものだが、俺の心はそうでもなかった。雨とワイパーのイタチごっこを眺めながら、天気とは対照的に晴れやかな気分だ。

助手席に座る女の子は、不慣れな手つきでシートベルトを金具に差し込んでいる。真剣な表情が幼げで愛らしい。

そんな彼女と、年の始めに「旅行に行こう」と話をしていた。
思いつきでつい口から出たことだったが、こうして二人で車に乗ると、現実味が実感として湧いてくる。

年始はいつも仕事が何かと忙しい。だが、今年は奇跡的に暇だった。
大型プロジェクトを入札すべくプロポーザルに参加した我が社だったが、企画部の上司が、しょーもないプレゼンテーションを宣ったために、他の大手コンサルタント会社に企画を持って行かれてしまったらしい。
社内的には大問題らしいが、おかげで仕事は減り、年始のゴタゴタ騒ぎに巻き込まれずに済んだ。
結果、こうしてりうちゃんと初めての旅行を謳歌できる。
持つべきものは、大事な時にしょーもないプレゼンテーションをして、部下の働き方改革を推進してくれる“有能”な上司に他ならない。

「よい...しょ。おっけー!お待たせ」
「よし!じゃあ出発しよっか?」
「うんっ」

サイドブレーキを解除しドライブギアに入れると、コンパクトカーは走り出す。

休日だというのに、思いの外、道は空いていた。
都内の環状線から中央自動車道に入り、高速道路をひたすら西へ。
八王子の辺りでは、工場やラブホテルと思しき看板が高速道路沿道にそびえていたが、山梨県に入り、談合坂サービスエリアが近づく頃には、自然の中を突き進むような気持ちの良い景色が視界に飛び込んでくる。

「休憩しなくて大丈夫?」
「そうだなあ、道も空いてるし、ちょっと一休みしよっか」

彼女に促され、談合坂サービスエリアに車を停める。
ここは、中央自動車道随一の広大なサービスエリアだ。慣れていないと迷子になってしまいそうなくらい。

「ね、スターマックスあるよ!美味しいもの売ってるかも〜!」
「お、行ってみよう」

世界的なコーヒーチェーン店「スターマックス・コーヒー」。フレーバーな香りのコーヒーや独特のお菓子類が豊富で、若年層に特に人気の高いコーヒーショップだ。

「キミは何にする?」
「んー、ちょっと眠気もあるし、ホットコーヒーにしようかな。りうちゃんは?」
「私はねー、ホットのミルクティとドーナツ」
「あー、ここのドーナツ美味しいんだよね〜」
「うんうん。後で分けてあげるね」
「半分こしよう」
「4分の1ならあげる」

彼女は意外と食い意地が張っている。

旅行費用は、全額自分が負担しようと思っていたのだが、それはダメだとりうちゃんは頑なだった。
りうちゃんは、バイト代のほとんどを学費に充当しているし、まがりなりにも自分は社会人だ。少ないとはいえ学生の稼ぎとは違う。それに年の功。旅行代金くらい全部支払ってカッコ良いところを見せたいという思いもある。
けれど、
「それはダメだよ。私も一緒に行くんだから、半分出す」
半分はさすがに払わせすぎだ。豪勢な旅という訳ではないが、宿代や食事代、レンタカーや高速道路の料金など、全てを含めたらそれなりの金額になる。それらを学生である彼女に半分負担させるようなことはしたくない。しかし、全額奢り、と言うと彼女は頑として首を縦に振らなかった。

何度かの押し問答の末、基本的には俺が代金を払うが、旅の途中でのコーヒー代やおやつ代を、彼女が払う、というところで妥結した。
そんなので本当に良いの?と彼女は申し訳なさそうな反応だったが、それ以上は自分が譲らなかった。

「はい、ホットコーヒー」
「ありがとう。...骨身に沁みる...」
「あはっ、おじいちゃんみたい」

車へ戻り、エンジンを掛ける。目的地のナビを確認すると、まだ結構距離がある。

今回の旅の目的地は、そう。白川郷だ。


白川郷は、岐阜県の北に位置し、世界遺産にも登録されている合掌造りで有名な郷だ。
梁と呼ばれる屋根の骨組みが、手のひらを合わせて合掌しているような形をしていることから、この建物に「合掌造り」という名が付けられたらしい。数日前、写真を検索してみたら、茅葺き屋根がかなり急な傾斜を成しており、正面からはおにぎりのような三角形に見えた。

「ね、音楽聞こ!ドライブには音楽だよ」
「良いね。そうしよう。んー...」

コーヒーを啜りながら、自分のスマートフォンと車載のカーナビをBluetoothで接続する。
昔、適当にダウンロードして今でも意外と気に入っている洋楽をかける。

彼女も俺も、アニメソングやゲームソングを好んで聴くことが多い。でも、なんとなくのんびりとした旅には洋楽が合っているような気がした。

「珍しいね、洋楽なんて。歌詞の意味分かるの?」
「いや、全然」
「だよねー。でも、なんか良い、うん。こういう雰囲気好き」

そういえば、自分が幼い頃、父さんとよくドライブをした。
週末の天気が良い日。母さんに怒られた後。学校で嫌がらせを受けてしょぼくれていた日の夜。

「よし、ちょっとドライブでも行くか」
父さんはそう言って、俺をちょっとした非日常へ連れ出してくれた。
俺は、たまに訪れるその時間が、幼心ながら楽しみだった。

助手席に座り、よく分からないボタンをいじくり回して、「そこは触っちゃダメだ」と注意されたりしたっけ。なんだか、コックピットに乗って、これから世界の外へ旅立とうとしている飛行士にでもなった気分だった。
その時も、父さんは洋楽をかけながら車を走らせていた。

当時はもちろんBluetoothなる機能はなくて、カセットテープを車載器に入れて音楽をかけていた。

カチッ...サー...

カセットテープの再生ボタンを押した時のカチッという硬い音。
続いて、砂嵐が吹くようなサー、という音。

いかにも懐古的なこの音を思い出し、懐かしく思う。

「父さん、この曲の歌詞、どういう意味?」
「そうだなあ、恋はいつだって盲目っていう」
「ホント?」
「いや、本当は全然分からん」
父さんもあの時、意味も分からず洋楽を流していた。俺はそんな父さんの冗談に笑い、でも、なんだか流れてくるテンポが心地よかったのを覚えている。

ドライブには洋楽。
そんな習慣が染み付いたのは、その時からだったのかもしれない。

車はサービスエリアを抜け、さらに西へ向かっていく。
都内を走っている時に降っていた雨は、気付くと止んでいて、透き通った青空に薄い雲がちらほらと流れている。
気分も空も、晴れやかだ。

「ふんふんふーん。もぐもぐ」
りうちゃんは、スターマックスオリジナルのドーナツを食べながら、洋楽を口ずさんでいる。
登坂車線でスピードを落とし、横目で彼女を見ると、嬉しそうに上げた口の端に砂糖がついている。こういう無邪気なところが子供っぽくて可愛らしい。
「りうちゃん、ドーナツちょっとちょうだい」
「いいよ、ちょっとだけねー」
彼女は一口分を千切り、俺に渡してくる。

...チッ。あーん、してくれるかもと微かに期待していたのに。

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