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「慢心に泡」

2021年12月6日のエッセイの再掲です。


今朝、朝食を終え、いつものように洗い物をしていたら、コーヒーサーバーが手から滑り落ちた。
落ちたと言ってもシンク内での出来事、高さ十五センチそこらからの着地だったので、ふつうに拾い上げて洗い物を続行しようとしたのだが、体感三秒ののち、私は思わず「ええええっ」と声を上げた。
ぶつかったところの縁が、無惨にも大きく欠けてしまっていたのである。

食器を割るシチュエーションというのは、運んでいる最中に手が滑ったとか、誤って机から落としたとか、そういうときをだいたい想像する。
子どもの頃に割ってしまった麦茶の瓶だって、冷蔵庫から取り出そうとしたのだった。
しかし、大人になって最も食器を割る可能性が高いのは、そういうときではない。
洗い物の最中、シンクの中である。

私は、平均して年に一度くらいは皿などを割ってしまっている気がするが、それも全てシンクの中でのことである。
ここでは、高いところから床に落とすというようなことは起こらないし、たとえ仮に手が滑っても平気だろう、という油断が確実にそこにはある。
食器洗いなんてのは、もはや何も考えずとも体に染み付いた動作であるから、だいたい意識も遠くにある。
その慢心と、洗剤の泡とが出会い頭にぶつかるのが、洗い物の最中の悲劇だ。

三年ほど前にも、買って間もないのに割ってしまった皿のことを思い出す。
こうした悲劇を胸に、一番気に入っている皿だけは絶対に割るまいと、改めてシンクの前で強く心に誓うのだ。


かや


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マガジン『榧乃徒然』にて、毎日エッセイと日記を書いています。
今回のエッセイは、こちらの記事からの加筆修正による再掲です。


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この写真は、《土星みたいな羽釜》





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