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青嵐の羽衣

 私は、右足を浸した。つま先から足首を覆われる感触がしたあと、身体を巡る血液と神経とを震わす、ひんやりとした感覚がやってくる。そのまま沖の方へ、ゆっくりと歩を進める。

 肉体は、私の魂から筋の一つも残らぬほどきれいに剥がれおち、それを私は水面から十メートルばかし浮き上がったところから眺めている。髪の毛や、目玉や、皮膚や、爪や、脂肪や、胃腸や、心臓や、筋肉や、血液。それらはやがて蒸発し、見えない粒となって空へ舞い上がって消える。そして最後に残った骨だけが、浜辺の砂のようにさらりとした細かい粒子となり、決して何も傷つけぬと誓うやさしい風に吹かれ、太陽の光によって大いなる祝福を受ける。その喜びの光をまといながら、広大な海へと旅立つのを想像した。




       1


 学生時代から七年間付き合った恋人、守と別れた。別に、大きな喧嘩をしたとか、どちらかが別の恋を見つけたとか、そういうわけではなかった。お互いに仕事も安定して問題なくやっていたし、明確に二人の関係を揺るがす出来事が起こったというのでもない。むしろ、何もなさすぎるくらいに、静かな凪の日々だった。つまり、お互いの存在が透明になっていて、二人の間には、遠慮とか配慮とか、そういうものがいつの間にか抜け落ちていた。

 それにようやく気が付いたとき、私はすでに苦しかった。守に対して、やさしくしたいと思うのに、そのときの私の身体は、目や口は、その思いとはいつも反対に動くようになっていた。傷つけたくないと願いながら、私のそれは彼を傷つけた。静かな静かな戦いだった。それでも守は、何も言うことはなかった。不満も怒りも見せなかった。それがやさしさだったのか、守自身も怖いだけだったのかは、わからない。ただひとつ確実なことは、お互いにこの停滞した時間に甘えていたということだ。

 そういう時間がずいぶんと続いて、ついに耐えきれなくなったのは私の方だった。ほんとうは、いつまでもこの時間を引き延ばしていたかったけれど、時間の流れというものが、恋を愛に変化させるわけではないことを、私はそのとき知った。

 これまで、決して壊れることのないダイヤモンドだと信じて疑わず、この手に固く握りしめてきたものは、手のひらを広げてみれば脆い砂糖菓子で、いつの日か無意識のうちに力んだ手は、それをいとも簡単に崩していた。そういうことって、決定的な瞬間には気が付かないものだ。気付いた時にはもう、粉塵と化したそれは風に吹き飛ばされ、どこかへ消えてしまっている。

 一度崩れたものを元に戻すことは決して叶わない。二人は無言のうちにそれを了承していた。それでも、認めるのが怖くて、気が付かないふりをしていたのだ。気が付かないでいれば、またいつか元に戻れると信じたかった。しかし、もう、疲れてしまった。人は愛するものがないことに気がついたとき、ふと歩き方を忘れてしまうのだと思う。

 ようやく別れ話を切り出したとき、ついさっきまで触ることのできたこの手に、まだ手を伸ばせば届く距離にあるその手に、たった今この瞬間からもう触れることはないのだと思って、それだけが悲しかった。日差しが暖かくて、穏やかな日だった。


 長年をともに過ごした人に別れを告げた私は、しかし思ったほど落ち込んでもいなければ、不思議と寂しさもなかった。いつものように毎日仕事へ行き、そこには変わらない日常があるだけだ。

 なんとなく身が軽くなったような気はする。けれど、解放感というほどのものでもない。自由な時間は増えたけれど、だからといって気軽に誘えるほど友達が多くいるわけでもなければ、そもそも遊んだり飲みに行ったりするような気分にもなれなかった。つまり、ただ一人分のスペースが空いていて、しかしそれを日常の忙しさや喧騒で埋めるつもりにはなれないのだった。


 そうなるとやっぱり休日はこれまでより暇で、これといってやることもなく、私はいつまでもだらだらと布団の上で微睡んでいた。

 そのとき、私は、足元にひんやりとした水色がゆらめく中で、湿った風を浴びていた。

 風は青々とした木を揺らし、白いワンピースの裾を通り抜ける。

 水面は光を細かく反射して、きらきらと輝いていた。

 それは、色と温度を確かに感じる、不思議な夢だった。起きて窓の方に目を向けると外は夕方で、レースのカーテンの隙間から橙色の光が部屋に差し込んでいる。

 そのとき私は、海に行きたいと思った。なぜか不意に、そう思った。そうするべきだと何者かに言われているような、動かされる感覚があった。根拠はないけど、止める理由も特になかった。これまで数年かけて溜め込んでいた有給休暇を使えばいい、それで遠くの海に行こう。今、夢で見た木や、風や、水のあるところへ。

 こうして、私は小さな旅に出ることに決めたのだった。




       2


 外はまだ、街灯が道を照らしている。人のまばらな電車に乗り、私は空港へと向かう。あれから一週間くらい考えて、行き先は南のほうにある小さな島に決めた。それほど有名な島というわけでもなく、行ったこともないけれど、旅行雑誌の隅に小さく取り上げられていたその島が目を引いて、最終的に直感で選んだ。

 その島で一週間ほど過ごすつもりだけれど、荷物は小ぶりなボストンバッグひとつで済んだ。最小限の着替え以外に、持っていくものは思い当たらなかった。ぽっかりとした心と、片手で収まる荷物。その軽やかさが、この旅にはなんとなくちょうどいいような気もする。まだ少しぼうっとした頭のままで電車に乗っていると、太陽が昇ってきて、朝が来る。

 空港に着くと、まだ少し時間があったので、カフェで軽くコーヒーを飲んでからチェックインを済ませた。飛行機は定刻通り飛び立つ。


 天候も良く、成田から鹿児島で乗り継いだ飛行機は、無事に目的の島に着陸した。早朝の便だったのもあって、私と同じ飛行機に乗ってきた人のほとんどが観光客のように見える。休暇のシーズンからは外れているけれど、案外この時期に旅行する人も多いものだ。皆それぞれに目的地があるらしく、空港に着くとあっという間に散り散りになって、どこかへ行ってしまった。閑散とした到着ロビーの土産物屋をなんとなく一周歩いて見てから、特に行くあてもない私は、バス乗り場を探す。実のところ、この島での予定はおろか、宿さえも決めていない。この旅は、勢いだった。直感の旅だ。ひとまずは、島の中心地に行ってみようと、バスに乗り込んだ。


 島の中心の街は、想像していたよりも賑わっていた。店が立ち並び、行き交う人も多く、お昼時の活気がある。それでも空を遮るような高い建物はなく、道幅もゆったりとしていて、太陽は頭上高くから思いっきり地面まで降り注いでいる。真夏でないからと油断していたけれど、初夏の日差しは強烈だ。日陰を探しながら商店街を歩いて行くと、観光地らしいお土産屋さんもあれば、地元の人が毎日通うのであろう肉屋や八百屋などもある。

 そんな八百屋の店先で、私がパッションフルーツに目を留めると、それに気が付いたお店のおばちゃんは、食べてみるかい、と私に声をかけた。私が頷くと、おばちゃんは冷蔵庫から冷えたのを取り出して、ナイフでそれを半分に切って、スプーンを添えて渡してくれた。海の潮の匂いと、甘酸っぱいパッションフルーツの香りが、一気に南国の空気を身体の中に運んでくる。その感覚に、なぜだか懐かしい感じを覚えた。ひとくち、スプーンですくって口に入れると、爽やかさが全身を猛スピードで駆け巡るのを感じる。

「おいしい」

「酸っぱくて不思議と元気が出るでしょう」

 おばちゃんの言う通り、いきなりの暑さに驚いていた身体に果汁が染みわたって、ぐんぐん元気が出てきた。身体が少し軽くなった気がする。お代を払ってお礼を言うと、お昼がまだならあそこの定食屋に行くといい、と近くにある店を勧めてくれた。地元の人もよく通う人気店らしい。そういえば、朝からほとんど何も食べずに移動してきた私は、確かにお腹が空いていた。どうして私の気持ちがこんなにわかるのかしら、と不思議に思いながらも、早速その定食屋に行ってみることにした。


 その店の中に入ってみると、古いけれどきちんと手の行き届いているのがわかる店内だ。スタッフの無駄のない動きを見ると、繁盛店なのがよくわかる。メニューを見ると、島で獲れた新鮮な魚と野菜を使った料理が並んでいる。ここはこの店の名物と思しき、キビナゴの南蛮漬けを注文した。それから、あっという間に運ばれてきたそれを一口食べると、うわあ、大正解だ、と思った。本当に美味しくて。夢中になって食べた。


 昼食の満足感に浸りつつ、お茶でも飲みたいところだが、何はともあれ、これから宿泊する宿を探さねばならない。商店街の入り口に小さな観光案内所があったので、そこで島にある宿について尋ねることにする。一人で気楽に過ごせて、あまり賑やかでなく、できる限り海に近いところがいいと伝えると、それならここがいいのではないか、と一つの宿を勧めてもらった。その宿は、どうやら私の希望通りのよさそうなところだった。街からは少し離れた場所で、海に面している。早速電話で部屋の空きがあるのを確認してから、タクシーを呼んでその宿へと向かうことにした。

 冷房が効いている車内で、これまで蒸気をあげていた身体がひんやりと冷気に包まれる。車窓の景色は、普段暮らしている街並みとはまるで違う。風にそよぐ大きな椰子の木や、空の鮮やかさを珍しげにうち眺めていると、あっという間に目的地に到着した。


 そこは一見、ふつうの民家のような入り口だった。恐る恐る中へと入っていくと、広々とした平家で扉がなく、向こうまで通り抜けられる開放的な作りになっている建物があり、それがおそらく宿の母屋のようだった。そこから繋がっているらしい建物の横には、洗濯物が干されていて、宿の人のものだろうか、生活の空気が流れている。そのおおらかさに、身体の力が少し抜けた。知らない土地で、思っていたより緊張していたのかもしれない。建物の外壁は、白を基調にしていて、眩しい。母屋の方へ近づくと、そこの女将さんと思しき女性が出てきた。

「お電話いただいたお客さんですか。お待ちしてましたよ。どうぞ」


 案内してもらったのは、海辺からほど近い、離れの部屋だった。一人で過ごすには十分な広さがあって、セミダブルのベッドの他には、ラタンの小さな丸いテーブルと椅子が置いてある。部屋の奥には大きな窓があって、外はテラスになっている。目の前が海を向いているようなので、窓から出てそのまま海へも行けそうだった。ベッドに寝転んで見える窓の外の世界にあるのは、生命力溢れる緑と空の青だけだった。

 宿の母屋には小さな食堂があるということで、夕食はそこで食べた。この食堂での食事も、島の新鮮な食材が使われた料理がたくさん出てきて、それはいい意味で大袈裟な感じが一切しなくて、優しくてあたたかくて、とても美味しかった。満腹になり部屋に戻ると、太陽を浴びた身体に気持ち良い疲労感がにわかに現れ、その日はすぐにベッドに倒れ込んで眠った。




       3


 彼女の姿を初めて見たのは、その宿に面した浜を散歩している時だった。目があったと同時に、強く惹きつけるものが、一瞬のうちに私の心を掴んで離さなかった。それは本当に刹那の感覚として、やさしい音色が身体に流れ込んでくるのだった。


 彼女は、一見、ふつうの女性だった。ただ、彼女の指一本、呼吸の一つが動かす空気が、ひとたび私に伝わってきたとき、彼女は女神のようであり、母なる大地のようであり、果てなく広がる大海のように見えた。自然と一体となって、すべてを包み、溶け込んで、吹き抜ける風や、森に茂る木々の葉や、海のなかを泳ぐ生き物たちと、会話をしているような感じのする人だった。強く照る日差しとは不釣り合いなほどに、小柄な身体で、ワンピースの裾から見える足首は細く透けていた。その瞳は、この世の美しいものだけを映すようでいて、同時に、この世の不条理を、人間の浅ましさを、憎しみや怒りや悲しみを、それらを知っている人にのみ宿る光を、湛えていた。人の心の汚いところ、ずるいところ、醜いところ、世の中に確かに在るそれらすべてを、やわらかく透き通った光の布で包み込んでいる、そういうしなやかさを奥に据えた瞳だった。


「いらっしゃい」

 何か、やさしい音がした。それは例えるならば、木管楽器のようなやわらかさの音だ。それが、彼女から私に向けて発せられた声だと気がつくまでに、わずかな間が必要だった。

「こんにちは」

「ここに来るのは初めて?」

 どうやら彼女は、ここで暮らす人のようだ。

「ええ。空も、海も、木々も、そこにあるエネルギーがそれぞれにきちんと発せられているものだから、その力にまだたじろいでいるところです」

「この島には、島の生命を司る、とても大きな木があるの。だから、そう感じるのかもしれません」

「御神木のようなもの?」

「そうね、すべてのエネルギーの源であり、それらの帰っていくところ。もしよろしければ、今から行ってみましょうか」


 唐突の誘いにほんの一瞬逡巡したが、無論、何の用事もなければ断る理由もなく、私は彼女に着いていくことにした。生命を司る木というのも気になったし、それよりほんとうのところを言うと、彼女の不思議さに、私は瞬く間に惹きつけられていた。このまま別れてはならない、と直感的に感じて、とにかく行ってみようと思った。

 彼女の後ろに付いて宿から少し歩くとその先に、山へ入ってゆく長い小道が続いている。舗装された道ではなく、人々が長い時間をかけてそこを幾度となく歩いたからできた、道標のような道だった。ここには人工的な音がないから、鳥の声も、風の音も、私たちの足音も、どんな微かな音もよく耳に届いた。二人の間に会話はなかった。何か話しかけてみようかとも思ったが、彼女が風の音を聞くのを邪魔してしまうような気がして、黙って歩いた。

 しばらく小道を歩いていくと、ひらけた場所に辿り着いた。顔をあげてみると、正面には大きな大きな木があった。腕をいっぱいに広げても、抱き付けないほどの太い幹。いくつもの雨、風、太陽の光を吸収してきた、そのどっしりとした幹から伸びる枝と葉。この島で生きてきた数多の人間の願いや祈りや怒りや憎しみを、一身に聞いてきたその体は、私が今まで見たことのあるどんな木をも圧倒する出立ちで、地面に逞しくその根を張っている。


「遥か昔、何百年も前から、この島の人々はこの木とともに生きてきたと言われています。諍いが起こればここに来て教えを乞い、嵐に見舞われればこれに縋り、不作が続けば祈りました。この木は私たちのよすがです。島で唯一揺るがないもの」

 そう言うと、彼女は風のように舞った。


 彼女の身体を纏うのは、薄くやわらかで、この地の光と空気をほどよく湛えた、たっぷりとした綿の布だ。羽衣を纏った天女が本当にいたとするならば、まさに今の彼女の姿そのものだったと確信させるように、その布は彼女の動きを心から愉しみ、それを逃すまいと躍るように寄り添っていた。

 爪の先端まで、微細な神経が通っていると思われるほどに、精緻さと可憐さを湛えた指先に、思わず視線が吸い寄せられる。あまりにも自然と融合したその動きは、この木の呼吸が生み出した酸素を含む空気が、彼女の身体に入り込んでその血管を巡る喜びを見せているのだった。ほんとうに美しいものを、初めて見た、と私はこのとき思った。


 宿への帰り道で、彼女の身の上について少し聞いた。私が泊まっているあの宿に住み込みで働いており、厨房で食事を作る仕事をしていること、休日や空いている時間には、こうして海辺に出たり自然の音を聴いて過ごしていることなどを話してくれた。さっきの舞は、島の伝統的なもので、祭りのときには島中の皆があの木の周りで舞うのだと教えてくれた。もうすぐ宿に着こうというとき、そういえばまだ名乗っていなかったことに気が付き、私の名を告げると、

「渚さん。とても美しい名前」

 と彼女は言った。これまで幾度と聞いた自分の名であるはずなのに、彼女が発したその三音の発音は、初めて耳にした知らない国の音楽のように脳内に響いて残った。

 彼女が喋るその声は、まるで楽器であると同時に、狼のどこまでも低く響く遠吠えのようでもあった。それは聞くものを不思議な心地よさに沈み込ませる、精錬された甘美が織り込まれた音の波だった。息継ぎにさえも、何か意味のある言葉が隠されている気がして、そのひとつたりとも聞き漏らしてはならないと思わせるのだった。

「私は月子。今日はありがとう」


 その夜、私は寝る前に、部屋からテラスへと出て月を眺め、今日のことを思い返した。昼間とは打って変わって、ひんやりとした風が静かに通ってゆく。満月の夜だった。

 この島に来てたった数日、それなのに、家から出てきてから一週間以上経ったのではないかという感覚がしている。島では時間がゆっくりと移ろって、何もしていなくてもあっという間に過ぎてゆくのに、そのすべての瞬間にずっしりとした手触りがあった。




       4


 それから、月子さんとは宿の中でたびたび顔を合わせた。

 夕食の時、彼女は私の姿を厨房から見つけて、隙を見て密かに料理を持ってきてくれることもあった。

 まかないとして作ったのだけど、美味しいからよかったら食べて、と小声でささやいてくれた料理は、驚くほど美味しかった。魚の味噌煮のようだけど、これは鰹かな。あとで会ったときに聞こう。そして、これはぜひとも正式なメニューに採用するべきだ、と伝えよう、などと思いながら、彼女の作った料理を頬張った。


 ある時はまた、浜辺で出会った。私は島でのほとんどの時間を浜辺で過ごしていたし、月子さんもそこで過ごすのが好きなようだった。

 私たちの会話は、海の生き物のこととか、空の色のこととか、たいていそういう内容だ。それから、島で採れる作物のことや、それらの美味しい調理方法を教えてもらった。家に帰ったら試してみたいから、忘れないように、と慌ててメモを取った。私が真剣に書いたそのメモ紙を覗き込むと、月子さんはふっと笑って、その隅に絵を描いてくれた。それは、美味しそうに出来上がった料理の絵と、天使にも赤子にも見える、どこか月子さんに似た少女の絵だった。


 私がどうしてこの島に来たのか、どうして一人で何日も滞在しているのか、そういうことを月子さんは私に一度も尋ねてくることはなかった。気になるような素振りも一切見せなかった。どうして、私に良くしてくれるのかもわからない。私のような客が、ただ珍しかっただけかもしれない。けれど、彼女はただ、目の前の巡り合わせを大切にしている、それは確かに伝わってきた。それでいて、月子さんは全てを知っていて、何もかもが見透かされているような気もした。私の中にある負の感情が、甘えが、狡さが、まるごと感じ取られているかもしれない。そういう感じがした。しかし、たとえそうであっても、二人の関係には何の意味もないことだった。それが、今の私にはどことなく心地よいのだった。

 私のことをほとんど聞いてこないのと同じように、私も月子さんの私的なことをあまり尋ねなかった。だから、彼女は私の中でずっと不思議な人だ。この島に長く暮らしているのだろうということしか、わからない。知りたいと思うけれど、同時に知らなくていいと思うことがこの世界にはたくさんあって、私たちの関係性はそういうことだった。


 気が付けば、島の風がすっかり身体に馴染んでいる。ここに来てから、ほんとうに何もしていない。ただ、美味しいものを食べて、自然に身を任せているだけ。いつもなら四六時中握りしめていたはずの携帯電話もいらなくなって、その手のひらの隙間にはただ空気が流れている。

 やっぱり、何かで埋める必要はなかったのだ。無理に、埋めようとしなくてよかった、と思った。埋めないでいたおかげで、私の中を流動的な何かが通ってゆく。


 島に滞在している間、宿からはほとんど出ないで過ごした。他の客は観光に出かけているのか、宿の前のビーチはたいてい独り占めすることができた。賑わっていた島の中心街の空気はここにはなくて、波と風の音以外はとても静かだけど、不思議と寂しくはない。やることは何もないのに、手持ち無沙汰な感じもしない。時間というものが限りなく引き伸ばされて、この世界にいるのは私ひとりぼっちだ。そう感じる時間がたくさんあった。

 それでも寂しいと思わせなかったのは、きっと月子さんのおかげだと思う。彼女はいつも、とても正確なタイミングで姿を現しては、決してしつこくならないタイミングで去っていく。波が寄せては返すのと同じくらい、彼女の存在は自然だ。

 しかし、深い闇に包まれる夜、南の島の、その湿った空気と眩い光をたっぷり浴びた身体で、部屋で一人静かに過ごすとき、どうしてもふと、守との幸せだった時間が心の中に蘇る。別れてすぐにはなんともなかったはずなのに、あれから少しだけ時間が経って、思い出したかのように感情が溢れ出ることがある。戻れないという事実をほんとうに知るのには、時間が必要だったのかもしれない。やっぱり寂しかった。

 いつかこれが壊れるだなんて疑いもしなかったあの頃の二人が、手を繋いで歩いている後ろ姿が、目の前に見えるけれど、こちらの姿に決して気がつくことはない。そのまま二人は歩き去っていく。そんな情景が何度も脳裏を反芻し、私は毎晩少し泣いてから眠るのだった。




       5


 朝、目が覚めると外は暗く、雨が降っていた。

 昨日までは毎日、有り余る力を溢れんばかりに振りまいていた太陽も、今日はすっかり息を潜め、おかげで暑さも落ち着いた、島の初夏の小休止だった。窓をすり抜け聞こえてくる雨音に耳を傾けながら、私はしばらく布団から出ずにいた。

 今日は外で過ごせないから、宿の中で過ごすことにしよう。そう考えながら、ゆっくりと起き上がり、顔を洗いにバスルームへ行く。ここで過ごしている間は、身なりにも大袈裟に気を使うことがなくて、化粧もほとんどしないものだから、朝の支度がすごくあっさりとしていた。二着だけ持ってきたワンピースに日替わりで袖を通して、鏡もほとんど見ることなく、ざっくりと髪を一つに結うだけだ。がさつなようだけど、適切に心が解放されているときって、どうしてかそれがだらしない感じにはならなくて、とても健やかに見えるから不思議だった。

 宿の母屋には、誰でも自由に過ごして良いロビーのような場所がある。今日は朝食を摂ってから、そこで過ごすことにした。椅子に腰掛けると、すぐ手の届く場所には本棚があって、そこには随分と日焼けした文庫本が悠々と入っている。タイトルだけは見たことのある外国の作家の小説を、なんとなく手に取ってページを開いてみたが、なんだかややこしそうですぐに眠気に襲われ、本を閉じた。


「何かを待っているのですか」

 ふと声のしたほうを見ると、月子さんが立っている。

「あ、本を読もうと思ったら、うたた寝をしてしまったようで」

「渚さんは、いつも何かを待っているような感じがする」

 月子さんには、こういうところがある。つまり、会話をしているようで会話にはなっていないような返答をしたり、ひとりごとを言っているようで真理を射抜いてくるというようなところが。

「戻りたくても、戻らないのが時間です。立ち止まったり、振り返ったりする時間は、給水所にいるようなものだから、いつまでもそのまま留まるわけにはいかない。それを渚さんはすでに知っているのでしょう。しっかり休んで、エネルギーが身体の中にうんと溜まったら、前だけを見て進むときがまたやってくる。焦ることはありません。進むしかないのだから」

 ぼんやりとした頭に入ってきた月子さんの言葉は、鼓膜を優しく震わせた。


 布団に入って、眠りに落ちるまでのわずかな隙間。風が髪を攫うその瞬間。そういうときに、一瞬、私の目の前を掠める。つい、その甘い残り香を辿ってしまいそうになるけれど、ついに掴むことはない。もう過ぎ去ったものなのだから。


 確かに私は、私を連れ出してくれる何かを待っていたのかもしれない。あるいは、そのときが来るのを待っていたのだ。そして、月子さんが言った通り、ほんとうは私は知っていたのだろう。私がここでじっとしていても、時は絶えず進んでいくということ。みんな変わっていくということ。生きるということは、私も自らの足を動かし続けるしかないということ。

 それでも目を逸らしたくて、いっそきれいな海を見て、その大きさにうちひしがれて、このまま私が消えてしまうのを、ほんとうはずっと想像していた。現実にするつもりはないけれど、考え続けていた。だから、海のあるここに来たのだろう。

 なくなってしまったけれど、存在していたもの。

 存在していたという事実は、消えないということ。

 それを抱いて、歩いていくということ。

 そのときが来たら、進むしかないこと。

 その意味を理解したとき、この休暇も終わりのときだった。

 進むということだけが、この人生で確かなことなのだから。




       6


 腰まで伸びた長い髪。それは潮風や陽の光を吸い込んでなお、誰の手にも決して触れられることのないような、黒く艶やかな髪だ。

 彼女の年齢は、自分と同じくらいに見えた。けれどもそう思って見ると、今度は幼い子どものように感じられたり、あるいは話してみるとずいぶんと大人のようにも感じられて、掴みどころがない。

 それが、月子さんの不思議な魅力だった。


 帰る日の朝、早起きをして浜辺に行くと、月子さんがいた。

 まだ昇って間もない朝の光は、砂浜をほんのりと橙色に染めて見せ、そこをゆっくりと歩く月子さんの背中は、柔らかく透けるようだった。

 ただ歩いているだけなのに、彼女の白いワンピースをはためかせる風の形が、私の記憶の中の彼女の姿と網膜で重なって、舞を踊っているように見える。あの日、私たちが初めて会った日、大きな木の周りを舞った彼女の姿を、私は一生忘れない気がする。


 思わず息を飲んで見つめてしまった。数秒か、数十秒か、時間が過ぎた後我に返り、別れの挨拶をしなくては、と思い直して近づいていくと、彼女は最初から私に気がついていたかのような、ためらいのない完璧なタイミングで振り返り、それからほんの少し微笑んで、横にある赤い花咲く木を指さした。私は、その指の先を見て、呟く。

「きれい」

「これはね、ブーゲンビリアという花。きれいでしょう。私はこの花が大好きなの」

「ブーゲンビリア。太陽の色を、あつめて浸して、ぎゅっとしぼったらこんな色になるのかな。そういう色をしているね」

「実はね、渚さん、あの鮮やかな色は花ではないの。ほんとうの花は、この小さな白い花。鮮やかなのは、花に纏わる衣のようなもの」


 そう言って月子さんは、ブーゲンビリアの纏うその鮮やかな衣を、指先でそっとなぞった。

 その瞬間、初夏の風がびゅうっと吹き抜け、私たちを撫でていった。

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