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「誕生」2022年8月27日

毎日更新をやめてから3ヶ月弱、まったく何も書いていなかったのだけど、「毎日更新をやめたからといって、noteの更新自体をやめることはないのでは?」とうっすら気づき始めたのがここ1ヶ月ほどだ。

そろそろ何か書いてみようかなあ、しかしまあ気がつけば毎晩深夜、というかもはや朝になっていて、実際に書くための隙がなかった。
というわけで、今日はすごく久々に、何か書いてみる。


それにしても、以前には半年くらいの間、毎日のように書いていたのにもかかわらず、どんな口調で、どんな感じで書いていたのかは思い出せないものだな。
ややもすると別人かのような語り口になってしまっているかもしれないが、まあ仕方なし。


最近の私は何をしているかというと、絵を描いている。
2週間くらい前に、突如として絵を描くことになった。

誰に頼まれたわけでもなく、何かになるかもわからない。
つまり引き出しに溜まっていくだけのものかもしれないのだが、これを描くのをやめられないのだから、「描くことになった」のだなあ、と思う。

家にあったオイルパステルを使って描いていたら、存外楽しくなってきてしまって、50色くらいがセットになっているオイルパステルを新しく買った。


ところで私は、絵が上手いとかいうことはない。
どちらかといえば、むしろ苦手に感じているほうだ。
しかし、オイルパステルを手に持つと、不思議と何かが描ける。

パステルは、子どもの頃にクレヨンを握ったときの自分を呼び出してくれるような感覚があるのだ。
どんな形であってもクレヨンが紙に触れさえすれば、それが「作品」になった、あの頃の感覚。
無意識の階層にあるものに、なんだかタッチできそうな。


これがペンや筆だとそうはいかなくて、何か具体的な意味のある、目に見えるものを、それらしく書かなくてはいけない気がしてくるから、そうなると描けないのだと思う。

目に映っているものを描くとなると、「上手い」や「下手」という評価がついてくる。
「上手く描けなきゃダメだ」という思い込みを、私たちは知らずのうちに身につけさせられてしまっているから、そうなると参ってしまう。

「他人に見てもらえないからやめる」「良い評価をされないからやめる」「うまくできないからやめる」というのは、しょうもない呪いだ。
そんなことに意味はあったっけ?


今の私のテーマは、「生」だ。
生きること、というよりは、生まれること、だ。人間が誕生するということ。

私は、生まれることがいいことだと思えず(悪いと言っているわけではなく、可能性のグラデーションの中を漂っている)、だからこそこの途切れない「生」を考える。
渇望と、抵抗と、諦めの受容について。


かや

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