虐待加害者でもあり被害者でもある?


今日は私を散々虐待した母親について書こうと思います。

私が物心つく頃から母からの虐待は始まっていました。
幼い頃は母からの行為が虐待だという事自体わかりませんでしたが、今大人になって振り返ると相当ひどい虐待だったのだと思います。

私は生まれつき目の病気を抱えており、1年の半分くらいを病院で生活していたため、母子の距離が一般的な母子より近かったように思います。
小学生の頃から、母の幼少期のこと、家族の複雑な関係、パートナーである夫への怒りや嫌悪を聞かされてきました。

 母が小学4年生の頃母親が再婚し、義理の父親との同居が始まったそうです。
しかし義父は酒乱でお金にもだらしなく、気に入らないことがあるとすぐに暴力を振るう人だったようです。
母親(私の祖母)に泣きついても庇ってはくれず「あんたがあきちゃん怒らせるからいけないんでしょ。しばらく外に行ってなさい。」などと言われたそうです。
「親に甘えることなんて私は許してもらえなかった」とよく母は言ってましたね。
 おそらく母が幼少期の頃は(虐待)という言葉は浸透しておらず、しつけで子供に手をあげてもそれほど咎められる時代でもなかったのだと思います。
 中学に上がり家に帰らない日も増え、高校に進学したもののその時すでにヤンキーのレディース番長になっていた母は高校を中退し、17歳で家を飛び出し上京すると夜の世界に入ったとのことです。
 母には姉がいましたが、お調子者で義父の前ではうまく立ち回る人だったらしく、そんな姉と比較されてきたことにも怒りを覚えていたようです。
 バブルが崩壊する直前だったようで、上京後お金はどんどんたまり、多くの男性から好意をもたれ、結婚を申し込まれたこともあったそうです
何とか自分の人生を立て直そうとしていたのかもしれませんね・・・
 しかし母は男に疲れた。という理由で田舎に戻り、高校時代、同じくヤンキーの番長をしていた現在の夫の思いに負け何の下調べもしないまま結婚しました。
結婚して蓋を開けると夫の方は貯金ゼロの上に借金を作るようになり、酒癖も悪く、おまけに浮気グセも治らない・・・

一方結婚を機に、両家の親からは孫が見たいとせかされ、なかなか子供ができないことに嫌味も言われたそうです。
 当時、不妊治療にどの程度お金がかかったのかはわかりませんが、人工授精8回目にして双子が誕生しました。
子供が産まれた時、母は心から喜び、「自分と同じような思いを子供達にはさせない」と心に誓ったようです。

 様々な希望、理想、夢を抱いていたのでしょう。

 朧げな記憶の中で、私が幼稚園の頃はいつもおしゃれで美人で、料理も上手で優しくて・・・
そんな母が自慢でした。
 でも月日が経つごとに、ヒステリックに怒られることが増え、叩かれるのがお尻だけで済んでいたのが顔やお腹に増えていき、私を見る母の目がどんどん怖くなっていきました。
 父には庇ってもらった記憶も優しい言葉をかけてもらった記憶も私には残っていません。
 家族みんなが目の病気で入退院を繰り返し、双子の片割れより手がかかる私にイライラと絶望をぶつけ、でも外では献身的な家族の姿を演じていました。
この時にはもう母の中でいくつもの歯車が狂っていたのでしょう。
 振り返ると、私の家庭にまともなコミュニケーションはなかったように思います。
酒に逃げ暴力を振るう父と祖父、ギャンブル、女に逃げる男たち、買い物依存、ヒステリーを起こす祖母、家庭内暴力に走り自分の感情をぶつける兄、そして母は理想通りにいかない日々に虐待に逃げ、エスカレートさせて行ったのかもしれません。

 毎日繰り返される虐待に怯え絶望しつつも、私はそんな自分の家族に冷めた気持ちしかありませんでした。
 母の暴力で全盲になり、高2で警察が介入した時、ここで私が逃げなければ母はいつか殺人者になるかもしれない、狂い続ける家族に終止符を打つためにはこの家からまずは私が離れなきゃと思ったことを今でも覚えています。


 私は母がした虐待をおそらく一生許さないでしょう。
ただその気持ちだけでは虐待防止活動はできないと思っています。
なぜ母は虐待を連鎖させ、自分が義父から受けたこと以上の虐待を娘にしたのか・・・
家から逃げ出し10年たち、客観的にその事実を考えることが増えました。
母も私も経緯は違いますが家を出たのが同じ17歳。
目が見えていたら、健常者だったらもしかしたら母と同じ道を辿っていたかもしれない・・・
そう思う事もあり複雑な気持ちになります。

 母が虐待を連鎖させた要因のひとつに、彼女は重度の愛着障害を抱えていたのだと考えられます。
上記にもあったように、私と同じように彼女にも安心できる家庭、甘えられる大人がいませんでした。
自分の感情表現がうまくできず他人を攻撃し娘まで攻撃し、男性からチヤホヤされることで自分の価値を感じていたように思います。
子供だった私にも「お母さんはこんなにも頑張ってる、でも誰も認めてくれない」とよく漏らしていました。
娘が成長していくにつれ、自分より娘が褒められることが気に入らず大人が私に声をかけても答えさせようとはしませんでした。
母にとって唯一素の自分でいられる場所、甘えられるのが私だったのかもしれないなと、ふと思いますね。
 非常に理解には苦しみますが、私にした性的虐待も娘だけはずっと自分が支配したい、自分だけを見ていてほしい。という歪んだ愛情ゆえの行為だったのかと物凄く客観的に考えたりもします。
まあ本当のところは理解できませんし、したくもないですけど・・・

 もう一つに、彼女は自分の家族、虐待被害と向き合わなかった
こちらの方が虐待を連鎖させないためには重要かなと考えているのですが、自分が受けたことを虐待とは認識していなかったのかもしれません。
自分の中にある苦しみや怒りと向き合わず、夫にも話さないまま結婚し、出産し、実家に戻り親と同居という最悪な選択をしました。
当然ですが、怒りを払拭できていないのにその本人たちがずっとそばにいるわけです。
 また夫は婿入りで義父母には気を使い母の親に対する思いも理解してないわけですから、妻の心のサポートは全くできなかったのでしょう。

結婚する上で家庭環境の違いはどの夫婦にもあることだと思います。
でもある程度共有できていなければ素の自分でいることも信頼関係を築く事もできないでしょう。
いちいち話さないというのも一つの選択肢だと思いますが、それは本人の覚悟と心の強さが求められると私は思います。

 よほどでない限り一般的に私たちが親になるまでに知っている家庭は自分が育った家庭のみであり、知っている親も自分の親だけです。
無意識にも親の影響を受け続け、子育てを始めた結果、虐待をしてしまったというケースはそんなに珍しいことではありません。
その連鎖を回避するために親になる前に自分の感情と向き合うこと、子供を望むなら、自分が親との関係で悲しかったこと、嫌だったこと、子育てへの不安などを結婚相手と共有する事がとても重要だと考えます。

 家を逃げ出し、様々な場面で「虐待を連鎖させないようにね」と私自身言われる事が何度かあり、ずっと悩んできましたし、今もたくさんの不安があります。
子供を作らない方がいいんじゃないか・・・
万が一親と同じことをしてしまったら・・・
でもやっぱり子供が欲しい・・・ そんな葛藤がまだまだ抱えています。
それでも10年間虐待を受けた過去と向き合い、一つ一つ乗り越えてきた自分を今はちょっと褒めてあげたいと思いますし、家族から受けた虐待、今もトラウマに苦しんでいること、それら全てを受け入れ、理解しようとしてくれている今の夫となら問題にぶつかっても乗り越えていけると思っています。

 話が逸れてしまいましたが、母はとても弱い人だったのだと思います。
自分の行為を止めることも振り返る事も、精神的にも経済的にも自立することもできなかった・・・

 生きてれば様々な場面で選択と決断を迫られます。
子供にとって親は絶対的で、その子供を親は守り育てる責任があります。
祖父母との別居、夫との離婚、行政への相談など様々な手段があったと思うんです。
けれど現実を直視する事なく、最低な虐待行為に溺れ、最終的に娘に絶縁されました。
 私が社会人になり何度か母と話す機会がありました。
驚くことに彼女は虐待したこと自体覚えてないといい、昔と同様に家族への不満を話し始め、
それでも離婚できないと言っていました。
もう救いようがありませんよね。


虐待は他人事と考える人も多いかもしれませんが、意外と身近で起きている可能性もあります。
また自分が両親から受けた事が虐待と認識してなかったり、被害を受け入れられず、ほんとは被害者だったのに無意識に加害者になっている可能性もあります。

この記事を読んでくださったかたが少しでも虐待問題に関心を持っていただけたら幸いです。
 ※あくまでこれは私の体験から書いています。
 文章力があまりなく、わかりにくかったらすみません🙇‍♀️

Amazon Kindleにて(私は母親の虐待で全盲になりました)を出版しておりますので、こちらも読んでいただけますと幸いです。
      ゆなねこ

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