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隠れた名士、聖徳太子の側近で参謀 始皇帝の子孫 秦 河勝(はたの かわかつ)

聖徳太子と言えば、誰しもが知っている有名な人物。その側近として、活躍した人物が秦河勝です。
彼の一族は、漢人系🇨🇳の渡来人で政治難民💨として、朝鮮半島🇰🇷を経由して日本🇯🇵に渡来、応神天皇👑の時に受け入れられました。
また、「秦の始皇帝👑の子孫👶🏻」弓月君の一族が、彼の一族でもあります。
山城国(京都府)の太秦を本拠地とした秦氏は、養蚕🐛や土木技術🪚に優れ、淀川🏞️の治水工事👷を行なっていました。
秦河勝は、桓武天皇👑が平安京🌇を建設する際には、秦氏が広大な土地⛰️と資材🪵を提供したとも言われています。

⭕️出自🤱🏻
日本書紀📕の記述では、河勝の先祖にあたる秦氏は4世紀頃に秦国🇨🇳から百済🇰🇷を経由して日本列島🗾の倭国へ帰化した有力氏族であります。弓月君の直系子孫まご👶🏻にあたります。

⭕️経歴📝
河勝聖徳太子の儕輩(同志)として国造り🗾に大きく貢献したとされており、当時の秦氏の族長的人物であったとされています。富裕な商人💴でもあり、朝廷の財政💰に関わっていたといわれています。四天王寺🕍の建立🔨や運営🈺については、聖徳太子に強く影響を及ぼし、慈善事業制度の設置に関わったとされています。
用明天皇2年(587年)の丁未の乱⚔️の際は「軍政の地位にあり、軍を率いて聖徳太子を守護しつつ、聖徳太子に命じられて仏像とするための白膠木の木を用意しました。聖徳太子が榎の木から射落🏹した物部守屋の首を斬ったのも秦河勝であります。そして乱後に冠位十二階の大仁🎖️に叙されました。
また、聖徳太子が諸国を巡った際に、山城国の「楓野村(=現在の葛野)」の「蜂丘」の南に宮を建て、その宮を河勝が一族を率い敬うことを怠らなかったので小徳🎖️に叙され、また宮をもらいました。後に新羅🇰🇷の仏像を賜った際には宮を寺とし、水田數十町並びに「山野の地」等を施入しました。これが広隆寺🕍であります。
一方、推古天皇11年(613年)、聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、河勝が、この仏像を譲り受け「蜂岡寺🕍」を建てました。
また、河勝の一族は、桓武天皇👑の時には、平安京🏙️を造設する際に、土地⛰️と資材🪵を提供しています。
よって、秦氏は渡来人🇨🇳なるも、この日本🇯🇵の礎を作ってきた、開拓者の1人であります。
歴史の教科書📕には、載っていないけど、歴史上活躍した人物👤はたくさんいます。秦河勝もその1人だと思います。
今後も、隠れた名士を探して記載しようと思います。
乞うご期待ください。


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