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味のグラデーションに感じる切なさと食のエンタメへの転換

食事を始めたときはあんなに味覚が研ぎ澄まされてて味が口の中に染みわたるのに、食べるたびにだんだん味の声が聞こえにくくなってしまうのが切ない。

これはどうしてなんだろう。理由は2つあるんじゃないかと思う。

1つは人間が食べ過ぎないようにするため。例えば焼肉を食べているときの最初の一口はたまらなく美味しいものになる。でもお腹が膨れていくにつれて、一口の価値はだんだんと下がっていってしまう。そうしていつしか満足感が訪れ、それ以上食べると苦痛に見舞われる。人の胃袋の許容量を超えてしまわないようにする機能。それと、栄養を取りすぎてしまわないようにセーブする役割も果たす。

もう1つは、舌が食べた物の味に慣れてしまうこと。これは、違う部屋に入ったときにいい香りがしたとしても、数分後にはなんの香りなのか分からなくなってしまうのと同じ。自分のにおいや味の基準が変わってしまうため、最初に良いと思った感覚がだんだんと薄れてくる。

これらの現象は人間の体の仕様上、変えることができない。だから、いくら2口目、3口目に1口目と同じ感覚を味わいたいと思ってもどだい無理な話になってしまう。

しかし、日本食には味覚を回復するための工夫が凝らされてる。その一例が、みんな大好きなお寿司だ。お寿司屋さんに行くと必ず置いてあるものがある。そう、ガリだ。寿司を食べるとどうしても魚固有の味が口の中に広がる。その味は醤油とともに力強く残るため、次の寿司を食べたら味が混ざってしまって十分に楽しむことができない。しかし、寿司と寿司の合間にあの酸っぱい生姜を食べることで、口がサッパリして次に食べた魚の存在感をしっかりと感じられる。

こうした日本人の知恵は日本食の様々なところに散りばめられていて、その演出にとても関心させられる。寿司の例でいえば、一つ一つのネタがそれぞれ主役で、ガリが脇役のようなもの。それでいてうまい具合に脇役が主役を引き立てるというバランスを保ってる。

そういう視点で見れば、食もエンターテイメント。それもある程度の礼節さを含んでいるため、神聖さを持ち合わせたエンタメだ。見た目の色合い、盛り付けのバランス、におい、味の強弱といった要素を細かなところまで楽しみながら食事をしたい。

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