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「リメンバー・ユー」イマーシブシアターを見て

ego:pressionの主催する「リメンバー・ユー」というイマーシブシアターを観てきた。https://www.egopression.com/latestinformation

ので、そこで思ったことを徒然なるままに、備忘録的に書いておこうと思う。徒然すぎてわかりにくいところあったら是非コメントください。

観劇中の感想「え、なに。じゃまにならないように。おっと!ここまで踊るのね!ローカルなおじいちゃんぽい人が観客にいるのいいな。孫連れてる感じとか。私はいま『家政婦は見た』の気分。」

イマーシブシアターという形式の公演を今回初めて知ったので、まずは公演形式に驚いた。舞台と客席という区切りはなく、観客と同じ地平で表現活動が行われる。

最初は自分の身の置き場がわからず、おどおどしていたのだが、だんだんと身の置き場がわかってくる…この感じ、フィールドワークっぽい笑

公演が行われたのは、下町にある古い日本家屋と町工場が一体となった建物。

観客の多くは20-40代って感じだったけど、その中に下町風情あるおじいちゃんや、その孫?もいらっしゃった。経緯はわからないけど、ローカルに開かれたダンス公演という感じがしてとても安心。

(ダンスとか演劇とか観るのは好きだけど、玄人ばかりな感じだと緊張しない?私はする笑)

で、公演が進んでくると、観客それぞれの「観劇スタイル」が定まってくる。遠巻きに見守る人、忙しなくいろんな部屋を見に行く人、演者が持っている手紙や写真を覗き込む人…

個人的に1番しっくり来たのは「家政婦は見た」スタイル。

ダンスが繰り広げられる空間にボヤッと立っているとなんだか申し訳ない気持ちになってくるので、柱の影や襖の隙間から覗くように、ダンスを鑑賞するのがとてもいい感じでした笑


観劇直後の感想「はぁ…ダンスでこんなに気持ちやストーリーが伝わるのってすごい…」

そんなこんなで、三日間を約100分に圧縮され、収縮と発散が繰り返されたショーが終わり、ジーンと来た。こればっかりは観ないとわからない感覚よね。

最後の場面を見ている時、私の隣には白髪が綺麗な大きなレンズの眼鏡をかけた下町のおじいちゃんがユニクロっぽいダウンを着て見てたんだけど、おじいちゃんと同じタイミングで息を飲み、キャストを見送った…(白髪のおじいちゃんは少し亡き祖父に似てたのも安心感の理由かもしれない)

ずーっとセリフはなく、身体表現、表情、ダンスで物語が進むんだけど、それでもストーリーや登場人物の心情がありありと伝わってきて、観客もなんらかの感動を共有していた。すごいな、不思議だなと感じ入った。

でも、こういう気分ってどこかで感じたことあるな…と思ったんだけど、そう、それはエチオピアに初めてフィールドワークに行ってホームステイ先で葬儀の一部に巻き込まれた時と似ている…と思ったのよね。

観劇後、2瞬後くらいの感想「一回だけでは全体の中の一部分しか、知ることができないのって、人類学のフィールドワーク的だ~現実ってそうよね~」

私が人類学の修士課程に入って、初めてエチオピアにフィールドワークに行った時の話を急にすることを許してね。

あらかじめお願いしていたホストファミリーの家に到着すると、なにやら様子がおかしい。天幕を張り、たくさんの人が集まり、空気が沈んでいる。

言葉は全くわからないのだが、何か悲しいことが起きたのだと察知し、末席になんとなく座る。

家の裏のキッチンで何かが起きているけど、何が起きているのかわからない。家の中にも子供たちがいるようだが、わからない。しばらくそこにいると、家主と妻が1番奥に座り、客と何かを悲しんでいることがわかってきた。

客は食べ物と飲み物を携え、家の中に入ってくる。家主と何かを話し、泣く。祈る。他の人が持ってきたお茶や軽食が振る舞われる。

この時は何が起こってるのか分からなかったが、その後、何度か別の葬儀に参加することで段々とこの地域の葬儀の全体像が見えてきた。

さて、今回のイマーシブシアターも一度見ただけでは全体像は見えない。全体を理解しようとするならば何度も見たり、別のメディアを参照する必要があるのだろう。

そして、人間が表現しているのだから、同じストーリーでも、各回、なにかしら違うことが起きる。

でも、通底するストーリーや環境は同じはずで、複数回みることで、そこが浮き上がってくるのだと思う。

当然だが、私たちが生きる現実世界はこのシアターよりも複雑で、さまざまな現実が複層的に同時に存在している。

このシアターでは、複雑な現実をある程度複雑なまま、過度に一般化せず提示しているような気がした。

観てしばらくして思った、邪念「この方式はフィールドワークの成果発表メディアとして使えるのでは?」

常々、人類学的な知見、経験はなかなか他者に伝えることが難しいと感じる。

現実はとても複雑で、複層的で、視点によって異なる解釈が可能だからこそ、文章以外でもそれを伝える術があれば良いと感じている。

その一つの方法が、映像人類学など、文字メディア以外の表現だとは思うけど、演劇やダンスでもそれが可能かもしれないな〜と今回のイマーシブシアターを見て感じた。

全体を振り返っての感想「こんなに抽象的なことを考えられるのは、ダンスや演出が素晴らしかったからでは!?てかYOHさんの体幹がすごい。身体としてすごい」

思ったより長くつらつらと、書いてしまったが、こんなふうに抽象的なことを考えられるということは、演出やダンスがとても高品質だったのだと思う。

それぞれのキャラクターや舞台である「鈴木邸」の解釈が深く、最高な形で身体表現に昇華されていたからこそ、注意が散漫になりそうな舞台装置の中でも「没入」できたのだと思う。

素晴らしい身体表現を感じられて、とても感動しました…

(感動以外のボキャブラリーが思いつかなかった…)

特に、YOH UENOさんの説得力ある動き、表現、重力感?に打ちのめされました。(自分はダンサーでもないのに)ただただすごいです。

後日思ったこと「マルチスピーシーズの人類学とか、環世界とか、多次元とか、フィルターバブルとか、SNSによって現実が複層的であることが明らかになったがすべてを認知することはできないということなど、最先端で表現する人は世界的に同じ方向性に動いていっているんだな…(ぼんやり)」

Googleで「イマーシブシアター」をざっくりと検索してみたが、今回のイマーシブシアターは一般的なものとは少し違う趣があるように思えた。

他のイマーシブシアターは一つのテーマへの没入を画策し、そのためのスペクタクルを用意しているように見えるが、今回は「現実が多数ある」ことを表現しているように感じた。

現実が単一ではなく、複数存在することをいかにして表現し、解釈していくか?

私の周りの社会科学や人文科学の実践者、アーティスト、経営者は同じような問いにより動かされているような気がする。

様々な最先端の現場では、似たような課題感を共有しているのかもしれない…と思わされる公演だった…

ego:pressionの今後がとても気になります。

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