翻訳って・・と考えています。

アマンダ・ゴーマンの詩「The Hill We Climb」の翻訳者を巡る一連の騒ぎについて、改めて文学作品って、翻訳作品って・・と、考えています。

そんななか、長坂道子さんがやはりご意見を発信されているので、それに反応して。

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文学作品ではないけれども、国際業務を30年以上やっているとどうしてもこの様な異言語間(異文化間)でのコミュニケーションの難しさは、未だにうんざりするほど体験している。あ、最近は同言語間(異文化間)というのもあるが、それはそれとして。


言葉を一つ一つ忠実に置き換えていくのか、伝えたいメッセージを理解し、それに沿った言葉を選んでいくのか。いずれにしてもそこには言葉を置き換える・選ぶ側(訳者)の資質が大きく影響してくる。

語彙能力とかもそうだけれども、その人がこれまでどういう家庭で育ってきて周辺にはどういう人達がいてどういう生活を送ってきてどういう作品を読んできたか・・などなど。つまり訳者の属性は翻訳作品に大きく関わってくるというのが私の意見。

異なる属性の翻訳者が多言語に訳した作品は、オリジナルとは微妙に異なったメッセージを発する。そうして展開していく事も勿論文学作品の可能性を展開・昇華させるものなのだろうけれども、作者の立場からしてみたら、それは「べつもの」。

これは長坂さんの意図とは全く違うけれども、判りやすいのは映画などで見られる「意訳」。「この方が日本人にとって分かりやすいから」とか「この方がうけるから」という作者が伝えたいメッセージとはまったく異なった介入によって作品が曲げられてしまう事。これは私の卒論資料の一つ「L'Amant(愛人)」の映画化マルグリット・デュラスが不本意さと言っていたっけ。

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私は長坂道子さんの文章が大好きで、朝吹登水子さん、石井好子さん、本間千枝子さんに続いて書かれるものをすべて購入して読んでいるエッセイストの一人。欧州+中東(といってもあちらは先進国・富裕層系、こちらは開発途上国系・汗水庶民系)という行動範囲もちょっと似ているし、お料理好きなところも。だけれども、敢えてここには反論。

アマンダ・ゴーマンの詩は、日本人では翻訳が出来ないのかもしれないけれども、強いて言えば、日米両方の文化圏で育ったアフリカ系米人ミックスの女の子に訳してもらいたい。(あ、うちのちび子は欧州中東が育った文化圏に混じっているので駄目です)

そこでは私なんかには全く見えていない「米国社会でアフリカ系米人として一人親家庭の娘として生きる事とはそもそもどういう事であるか」という大前提を理解した上での言葉選びによった作品・その世界が展開する筈。

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「そう、私が感じた違和感は、そもそもゴーマンさんの詩を「若い・黒人・女性」という属性に閉じ込めようとするその傲慢さに対してものでもあったと思う。作品の持つ普遍性のポテンシャルを最初から断ち切ろうとする、そうした分断主義は、そもそも文学にはなじまない。文学の読み手は、それぞれ自分が置かれた場所で、限られた人生体験や自らの属性による縛りの中でしか作品と接し得ない。「真の理解」なるものが仮にあるとして、そうした真の理解を妨げる限界や縛りだらけのはずなのに、それでも読もうとするし、いくばくかの何かを感じたり考えたりする喜びにもあずかれる。
翻訳とは、他者の属性に近づき、それを理解しようとする試みである一方、属性という縛りからの解放の営みでもあるのだ。そういうものとして「翻訳」を理解してきて身にとって、ゴーマンさんの詩の翻訳を巡る一連の騒ぎには到底無関心ではいられなかった。」



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