自分の意識や気持ちを汲むのが精一杯

こんにちは、Yumi です(^^♪


先日、あることをきっかけに、気持ちにモヤモヤが浮上しました。

ご近所さんとのちょっとした行き違いです。

後で、どうして私はあんなに頑なな態度をとっちゃったんだろう、と反省しました。

今でも、それは思います。

考えられる理由が幾つかあるものの、

そんな理由、大したことなくて、私が譲歩しても、後で自分の中でフォローできる理由。なので、頑なに拒んだ真の理由とまでは言えません。

相手を傷付けたであろうことが とても気になります。

傷付けるつもりなかったと、謝ったり、弁解をしに改めてその方のところへ行くのも、違うような気がしています。

だって、傷付いてる相手を、どこかで悪いとする行為のような感じが致します。(そもそも傷付いた人って相手を過小評価している??)
また、あの時の自分を否定するような気にもなるからです。

起こったことは、ベスト、といいますか、あれはあれで、起こるべくして起こったのだから良かったんだ、とも感じています。

ご近所さんが、実際に傷付いたかどうか、
今でも心に傷を感じておられるか、など、本当には分かりませんが、

仮に傷付いたとしても、その傷をどうするかは、ご本人の課題。

私は、早く癒えるように、祈るのみです。

そして、悪かったな、と気になる私の気持ち。

これこそが、私の課題…。

傷付けたかもしれないと、ここまで気になるのは、何なのか...。

罪悪感?

すると、夜中に、こんなことを思い出しました。

むか~しむかし。
まだ、私が小学生の低学年の頃。
母の日に、灰皿をプレゼントしたのですが、こんなものは要らないと受け取ってもらえなかった思い出です。とうに忘れていた昔のことです。

その「センスの悪い」灰皿は、行き場も無く、使われることも無く、私の部屋に長い間たたずんでいました。センスの悪いといった感覚も思い出され、それは母から言われた言葉だったのか、それとも、母の態度から私がそう判断したのか、今となっては確かめることもできないです💦

母は単に要らないから要らないと言っただけ、だったのかもしれません。

大の大人が、小さい子どもからの母の日のプレゼントに対して、正直に真っ向から「要らない」と拒否するのは、どうなんだろう?と考えてしまいますが、私がご近所さんに対して取った態度も似たり寄ったりでした。
(今思い起こすと、離婚するかしないかで、母にとって修羅場の時期だったのかもしれないです。)

母は私を傷付けるつもりは全く無かったと思います。

私は、すっかり忘れていましたが、傷付いていたんだと思います。
被害者のように感じた自分がいたんですね。

そして、今度は、私が、不本意にご近所さんを傷付けてしまいました。
(傷付いただろうと気になって気になって仕方無かったのですが、傷付いていたのは実は私だったのです。)

まさか母から要らないと言われると思ってもいなかった過去の私に
「分かるよ、Yumi。拒まれたみたいで寂しかったね。」と寄り添ってあげたいと思います。母の代わりに「ごめんね、悪かったよ。傷付けたとしたら、ほんとごめんね。」と。

同時にご近所さんのことも。。。
「傷付けてしまったとしたら、本当にごめんなさい。」と。

もっと意識が進化して、互いの想いが通じるようになれば、
誤解や間違った解釈は無くなりましょうが、現時点での私たちは、自分の意識や気持ちを汲むのが精一杯ですね。

これを書くことで、私自身はなんだか、癒されたような気がします。

今日もありがとうございました✨

ナマステ(^^♪


※追記
今日、この記事を書いている最中に、そのご近所さんがLINEメッセージを「おはよー♬」といったスタンプでくださり、夕方も、外出先からの帰宅時に偶然お会いできました。お互いに「こないだは ごめんね~」を言い合いました(^^♪
そして、バイバイしたあと、もう一度「Yumiさん」と呼び止められ、改めて「ごめんね。」と、もう一度言われました。なんだか、他界した母からの言葉のように感じられました...。

※※追記2
傷付いたと傷付けたは、同じコインの表と裏なのかなって気がしてきました。元々の私自身が批判的で、私の親切を拒絶した母のことを、”酷い母親”、と非難する心があるから、頑なにご近所さんの親切をお断りした自分が悪いことをしたような気持ちになったんだ!と気付きました。

人を責めたり、悪いとするのも、自分を悪いとするのも、同じ「批判」という意識ですね。批判する心を持つ自分を(批判するのではなく)受け入れたいと思います。それが、私の愛を育むことになると思うから ... 。



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