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属せない・属さない・属す

属す、というコンセプトについてしばらく考えている。

自分は子供の頃から帰属意識が薄かったと思う。学校に存在したグループというものも苦手だったし、愛校心というものを求められるとゾッとしてしまうう性質は、小学校低学年の頃から自分の中に認めていた。小学校から高校まで通った学校は私立だったが、常に「馴染めない」という気持ちを抱えていたし、地元に帰れば「私立に行っている子」としていじめられたりもした。

子供の頃は、いる場所に帰属意識が持てない、ということは、辛いこととして存在していたと思う。どこにいても自分がそこに属している、という気持ちになれないという状態は、ある種の不安を生むからだ。ところが、属せない、という気持ちは、だんだん属さない、という意識的なものに変わっていく。自我というものが形成されてからは、属してやるものか、という好戦的な気持ちが培われていった。その後進んだ大学も、おまけに大学院でいったアメリカの大学も、おそらく世の中の水準に比べても、愛校心というものが濃いめの場所だったのだろうと思うが、その中にいても、常に自分はそこに属しているという気持ちは薄く、どこかアウトサイダーのような目線でいた。そして「属す」ということがてらいもなくできる人たちを、シニカルな目で見ていた。大学のスポーツ試合には絶対行かないと決めていた。いまだに同窓会の類も大の苦手である。

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