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ひつじの履歴書①~専門学校編~

こんにちは。にしやまです。ありがたい事にコメントにいくつかリクエストを頂きましたので、2015年にひつじ製菓を開業するまで、私が何をしてきたのか「ひつじの履歴書」と題して書いてみようと思います。はじめに言っておきますが、これを読んでしまったらきっと皆さんがひつじ製菓に対して思っている色々なファンタジーな部分が打ち砕かれる事と思います。ひつじ製菓のイメージを崩したくない方には読む事をおすすめしません!そして、書かれている事はお菓子と関係ない事がほとんどです。しかし、これからお菓子屋さんをやりたい、販売してみたい・・けれど、こんな自分じゃ無理だわ、と思って一歩踏み出せない方へ。こんな人でも何とかなっているのなら自分にも出来るかも!と思って頂けるのではないかと思います。暇つぶしに読んで頂けましたら幸いです。

ひつじ、専門学校へ行く

いよいよ進路をいよいよ決めなくてはいけなくなった。私は地元鳥取県・境高校の家政科に通っていて、高校を卒業したら絶対に県外に行き一人暮らしをしたいと思っていた。

アートっぽい事や絵が好きだったので、才能があれば美大に行ってみたいという気持ちもあったけど、そんな才能は全く無いという事を美術の授業で気づかされていたのでさっさと断念して、子供の頃からの趣味でもあったお菓子の専門学校に行こうと思った。

その頃はケーキ屋さんをやりたいなどという野望は無く、なんとなく好きな事だからそれに関連する事をしてみようと思う程度だった。

専門学校に行きたい事を母に相談をすると、将来お菓子だけが作れるよりも調理も出来た方が選択肢が広がるのでは?という提案があり、一年目は調理師の専門学校に二年目は製菓衛生師の専門学校に行く事になった。

学費は決して安くはないし調理の事にはさほど興味も無かったけれど両親が出してくれるというなら、という事で甘えた。

どこの専門学校にするか決める時、大阪か京都という選択肢があったけれど学費もわずかに安かったし、歴史や古いものが好きな私は迷わず京都を選択した。

そんな訳で、初めての一人暮らし&専門学校生活がスタートした。引っ越しは鳥取から車で両親が荷物を運んでくれ、無事に終わった。

母は入学式を終えると「それじゃあ、くれぐれも気を付けてね」というような事を言って鳥取に帰って行った。18年間家族と一緒に暮らしている事が当たり前の生活から、驚くほど小さな部屋に一人取り残されて、寂しい気持ちでいっぱいだった。たぶん、泣いたと思う。

しかし、そんな思いも束の間、はれて憧れの一人暮らし!そして世界的にも有名な観光地でもある京都に暮らしているなんて!!と気持ちが高まった事を思い出します。

住んでいたマンションは学校の隣にあったため、専門学校に通う子達が数人住んでいた。入学式の頃は知り合いが誰もいない中、同じマンションの一階下に住んでいたMちゃんと友達になった。Mちゃんは同い年で製菓コースに入学した子だった。

同級生でお互いはじめての一人暮らしという事もあり、すぐに仲良くなってそれぞれの家に行ってご飯を作って食べたり、どこかに出かけたりした。

思えば、山陰地方以外で初めて出来た友達だったかもしれない。Mちゃんは三重県の子だった。

そんな訳で、私は調理師の専門学校に通いはじめた。クラスは確か50人弱くらいだったと思う。男子がやや多くもちろん、知らない人ばかりで慣れない関西弁が飛び交う教室にかなりビビッていたような記憶がある。

最初の頃の授業中、先生が言っていた言葉で唯一覚えている事がある。

「今このクラス、50人くらいいるけど、将来この仕事続けてる奴なんて3・4人やで」

とちょっとニヤけた顔で言っていた。それを言われた時、なんだか悔しく思ってじゃあ私がその3・4人になってやる!と調理に興味もないくせに思った記憶がある。その事を意識していたつもりは無いが、今思えばこうして現在ケーキ屋になっているから人生は何があるか分からない。

学校生活はというと、きっかけは何だったのか?よく覚えていないけれど仲のいい女の子が4人出来て、その子達と毎日一緒に過ごすようになった。滋賀県、京都、大阪の子達だった。微妙な違いはあるものの勿論、みんな関西弁で、私だけは境弁なのを珍しがられ、とても恥ずかしく方言を隠すような話方をしていた。

調理師の学校だから当然、料理やレストランに興味があり、詳しい人が多くてそんな人達から美味しいレストランや今、注目されているシェフの話を聞く事もあったけれど私は相変わらず、料理には本当に興味が無く、座学の授業は必ず睡魔に襲われるほど退屈で、実習も先生がやたら怖くて、びくびくしながらやっていた為、何を作ったのか、ほとんど覚えていない。唯一覚えているのは鯖の3枚おろしのテストがあったため、大量に鯖をさばいた事と鯖の中には思いのほか沢山の寄生虫が住んでいるのだな、と感じた事。あとはキャベツの千切りのテストの時、隣の男の子が指を激しく切って、キャベツがピンク色になっていた事くらいしか覚えていない。

そして、極めつけは一番最後の実習の時だ。確かフルコースを一1班づつ作るという課題だった。私はフライパンも振れないし主要メンバーから外れていた為、隅っこの方で用意してあった鷹の爪を指でちぎっていた。すると欠片が爪のと指の肉の間に入ってしまい、今までに体験した事のない激痛と熱さに襲われ、その場に立っていられなくなり号泣しながら保健室に連れていかれた。保健室の先生も、どうする事も出来ないからお湯か何かでふやけて出てくるのを待つしかないと言われ、拷問のようなその痛みが収まるまで保健室にいた。

ようやく、痛みが引いたころ調理室に戻るとフルコースが完成していた。

今だから笑って言えるが、こんな内容の一年間に200万近く払ってくれ毎月仕送りもしてくれた両親には頭があがらない。

今でこそ、外食は大好きだし、食いしん坊で美味しいものには目がない私ですが、専門学校の授業は本当に興味が無く、食べ歩きもしない、食にもさほど興味が無い。そんな生徒だった。

そんな私が学校以外で何をしていたかというと、ひたすら洋服を作ったり自分の部屋をコーディネートする事に夢中になっていた。休みの度に布屋さんに行くのが楽しみで仕方なかった。洋服の作り方は高校の家政科で習ったので、基礎的な事は一通り出来た。既成の型紙を自分が作りたいデザインにアレンジして作り直したりもしていた。

そんなに洋服を作るのが好きだったなら服飾の専門学校に行けばよかったのに、とも思うけれど当時の無知な私でさえ、洋服づくりで食べていけるほど甘い世の中ではない、まだ調理関係の方が仕事としては現実的だ、と思っていたし自分にそんなセンスがあるとも思えなかった。

あとは、バイトもしていた。同じマンションに住んでいるMちゃんのバイト先のケーキ屋さんを紹介され働くことになった。そのお店は今は倒産してしまってもう無いけれど、当時は京都に幾つか支店がある有名なケーキ屋さんだった。本店でベースとなるスポンジ等を仕込み、支店で仕上げをしてお店に出す、というスタイルのお店で私はその支店で働いていた。

仕事内容は主に数種類のケーキをナッペ、カット、デコレーションをしてショーケースに出すという流れだった。そのお店は小さな喫茶スペースがあったのでランチ時間に出すカレーの仕込みやサンドイッチの仕込み、ドリンク類を出したりパフェを作ったり、色々な事をした。女性ばかりのお店で最初は意地悪な人もいたけれど、気にしないように過ごしていたらその内、優しく対応してくれるようになった。こういう事はその後、他の場所でもよくあって、人間関係とは本当に面倒くさいなぁと感じていた。

作業自体はわりと楽しかったけれど、バイトに行く事の憂鬱さや面倒くささはあった。でも仕事ってこういう事に耐えて、みんな頑張っているんだから我慢しなくちゃいけないんだよな、と思って過ごしていた。

それから20年後にはそんな思いをせずに、働く事が出来るなんて・・・その頃は想像すらしていなかったけれど。

面倒くさい調理師学校も1年で無事に卒業し、次はいよいよ希望していた製菓学校へ入学となった。しかし、いざ入ってみてもワクワクする事もほとんどなく、ナッペの授業もあったけれど私はすでにアルバイト先のお陰でナッペをかなり上手に出来るようになっていた為、つまらないな~と思って過ごしていた。結果、調理学校の時以上に製菓学校での実習は何を作ったのか覚えていない。授業が退屈過ぎたので、しょっちゅうサボっていたような気がするし、その当時はバイオハザードにめちゃくちゃはまっていて、気づいたら5、6時間過ぎていた!なんて事がよくあった。

勿論、まじめに授業を受けて楽しんでいる人達もいるから、専門学校が悪いのではなく私に合わなかっただけの事だと思う。

そんな中でも唯一製菓学校時代に嬉しかった事がある。和菓子の授業で特別講師として京都の老舗和菓子屋「老松」の店主さんが来られていた時の事、バレンタインに出す和菓子のデザインを考えるという課題を与えられた事があった。その時に出した私のデザインをクラスで一番良かったデザインとしてとても褒めてくださり、嬉しかった。

あと楽しかった事は卒業制作で、仲の良かった子とチームを組んで作品を作り上げた事。その時はもう、何を作るのかデザインの時から2人でワクワクしっぱなしで、沢山相談し合って深夜まで作業が続いても全く苦ではなかった。寝て目が覚めるとその事で頭がいっぱいでわくわくが止まらない日々が続いた。作品展が終わってしまうのが残念でならなかった。結果、何の賞も獲れなかったけどそんな事は、たぶん2人ともどうでもよくて、ただただ作りたい物への目標にむかって作業する事が楽しかったのだ。余談だが、そのチームメイトの子は結婚して香港に住んでおり、現地でお菓子教室を開いていると聞いている。

そして、そんなゆるゆるな専門学校生活もいよいよ終わろうとしていた。周りの子達は就職先が決まっていて、地元に帰る人、京都の有名ホテルに就職する人、レストランに行く人など様々だった。

そんな中、私だけは何も決まっていなかった。就職?私が就職なんてするのか??ケーキ屋さんには相変わらず興味は無かったし、朝早く給料も安く、怒られるのが仕事のような環境に行く、なんていう選択肢は怖すぎて私の中にまるで無かった。

だから、私はとりあえず調理師学校の頃から続けていたケーキ屋さんでバイトを続ける事にした。こんなに楽しい京都という町に住んでいて地元に帰るなどという選択肢も全く無かった。

そんな訳で、私はそれから5年間続くフリーター生活をスタートする事となった。つづく・・・・










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