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「母」ということばの解体

戸塚のMurasakiPenguinTotsukaで行われたDismantlingMotherhoodというイベントに参加してきました。このイベントは、母という言葉を解体して、他者をケアする能力を開くことを目指す実験的なアートプロジェクトで、公募で集まった 6 人の横浜在住のお母さんたちとアーティスト坂本夏海さんと、研究者の齋藤梨津子さんが生み出した作品とそのプロセスを1時間かけてお聞きすることができました。

会場のMurasakiPenguinTotsukaは戸塚駅目の前。上は保育園、下がスタジオ。建築家隈研吾。ここの中だけ異空間。外は日常。

■どんなプロジェクトか

Dismantling Motherhood は、「母」という言葉を「解体」し、母親業がもつ「他者をケアする能力」を「ひらく」ことを目指す実験的なアートプロジェクトです。公募であつまった6名の横浜在住の母親たちと、2023年9月から約半年間にわたり、クリエイティブな複数の実践を共に行いました。
現代における子育ての孤立と向き合い、 母親が自身の「声」に耳を傾け、表現するため、小さなネットワークとしての集まりを作る試みです。そこで語られたことを共有し、最終的に集められた声を「作品化」していくプロセス を、参加者で共有しました。
このプロジェクトでは、リサーチと運営を協働で行った研究者齋藤梨津子と、これらのプロセスを共に歩み、考察・分析し、その成果をドキュメンテーションと論考として本にまとめていく予定です。
約半年間戸塚を拠点に活動した成果を、活動拠点となったMurasaki Penguin Project Totsukaにてレクチャーパフォーマンス、オープンスタジオとして発表いたします。

https://www.mpptotsuka.com/event/natsumi-sakamoto-dismantling-motherhood/

関わる6人の市民でもあり母でもある人たちが、母と自分をわけすぎることなく、「自分」か「子」かとその関係性を天秤にのせることなく、『「母」が肌にぴたりとくっついているなかで手荒くそれを引きはがして大きな痛みをおわせることないように』と最初から最後まで関わる人たちの、その絶妙な感情を大切にしたアート作品であることが伝わってきました。こんな風に丁寧にその部分を大切にしてくれること、それがなんだかとてもとても嬉しかったです。


最終的には発表をするという、『ひらいていくプロセス』が作品である以上は必要ですが、アートが関わる彼女たちが守りたいものを搾取することないようにということもずっと気をつけながら作品をつくってきたことも伝わってきました。アートにこういう種のあたたかさを感じたのははじめてで(そういうことを大切にされてきた作品は万とあるのかもしれませんが、1時間かけてプロセスを聞く機会があったことでより感じられたのかもしれません)終始じーんとしてました。

母たちということをひとくくりにせず、個の声、聞こえないくらい小さな日常のルーティンに埋もれている声をしっかりとらえて、透明の糸にして布を縫っていくような感覚、そういうことが私にとっての『連帯』というような表現を坂本さんがされていて、なんて美しい表現なんだろうとも思いました。


1時間話をきいて、作品を改めて見て感じたことは、言葉を飲み込む装置があちこちにあるということです。

市場と自然と家族


言葉を飲み込む装置は、市場と家族の間のなかにあるということが一つ。例えば市場というものは家族や自然の犠牲のもとになっている。自然を破壊し、家族を解体する、そのそれぞれの外部に依存なくしてはなりたたない。ケアをしているときはその市場の外側にいることを感じる。例えば経済的な基盤を持たないとき、その中で自立を感じるのはいかに難しい。意見を持つこと、選択をすること、様々な場面で私は自立しているのか。自分が自分の足で立っていることを感じにくいと感じる時点でその市場を中心とした構造にからめとられていることを突き詰められる。その中で感じている声は価値がないものと、『市場』の論理に溢れる社会では自分で自らその声を自分の中に沈めていく。

会場の展示の一つ

壊れたものはまた新しいものを買えばよい。新たに創って、また更に発展させて、という『創造』が評価されるなかで、『メンテナンス』をするというような日々は評価されづらい。洗ったお皿を片付けてまた数時間後にそれがまた汚れたらまた洗って片付けてという繰り返し、着た服はまたたたみ、汚れてまた洗濯してまた干してたたむという繰り返し。そこに潜む美を感じる余裕があるときには、当然面白さは山ほどあるかもしれないけれども、その余裕がないときは特にその作業はただ「繰り返し」に感じ、自分がずっとそこにとどまっている感覚になる。家族が家を出て帰ってきたときに、朝より夜家がきれいになったどころかさらにカオスに、汚くなっていることもある。途中昼間頑張って片付けてもまた夕方おもちゃがひっくり返り食べかすが夜ご飯にはまた散らかる。昼の片づけはなんの意味もなかったと、「意味」なんて誰も求めてないのに自分自身が何かに「意味」を求めていることにも気づかされる。

作品と研究が織り交ざって理解が深まります

こういうと、何かこの繰り返しの日々が虚しさに溢れているように見えてしまいますが、そういう気持が時折湧いてくるとしても、それだけではない。言葉にすると、一面だけが切り取られて「大変だね」の一言になってしまうところ、アートの作品を通してそれを表現していくとなんだか大変だけでもない、嬉しいでも、楽しいでもない、けど、立体的にその日々が浮かび上がってきます。これが絶妙でした。

個人の責任

大変さがあったとしても、産んだのは自分だからと個人の責任でそれを片付ける。それもまた言葉を飲み込む装置であることも改めてこの作品の説明を通して感じました。

自分の名前で自分を認識するところから、母親としての自分と役割に生きる時間が、誰かのペース・誰かの時間軸で自分を生きる時間が長くなってくると、自分が混乱してきます。何より、考えるという時間がとれない。
「この靴下の片方はどこにいった?」と手と目を動かし床を這ってソファーの下をのぞき込み、着せたばかりの服が納豆まみれになってねばねば洗いつつ隣の部屋の子どもの様子に神経をとがらせ、と、身体ありとあらゆる部位と神経を子どもに向けていることが多いので、「あれ?私ってなんだっけ?」なんて考える暇なんぞない。でも、その「置いてきぼりにしてきた自分」、「あんなことこんなことをやってみたい」と思っていた自分、をふとつきつけられる瞬間があって、その引き裂かれるような思いがこの作品と説明を通して刺すように伝わってきます。でも、それも私の選択。

これもまた言葉にすると、苦しさのみになってしまいますが、その感情をたくさんの絵具を真っ白なキャンバスを与えられ自由に色を選びながら描いていく時間を母たちがもつことで、苦しさだけではないものが伝わってきます。決して一つの色ではなくていろんな色を織り交ぜて、感情もいったりきたりしながら描いていったことが伝わってきました。

「自分」と「母としての自分」を天秤にかけてケアする母としての自分を低く見積もるのではなく、そのケアそのものの価値を再発見するプロセスだったことも伝わってきます。

アートには、こういう力があるということを改めて実感しました。言葉優位のワークショップでは、うまく言葉にならない感情がたくさんあるので無力を感じる時があります。だからといって、色とかアートで何でも「自由」に自分を表現できるわけでもないけど、プロのアーティストと研究者が自身の葛藤をたくさん抱えながらその言葉にならない感情をとっても大切にしてくれたからこそ無力さをただ感じるということに終わらなかったんだろうなあと思いました。

セーファープレイス

最後に、印象言っていた言葉としてセラピーでもない、社会運動でもない、シェルターでもない。セーファープレイスなんだ、という言葉が印象に残っています。

より安全な場所をつくるところ、すべてはそこから始まるというメッセージがあり、本当にそのとおりだと思っています。居場所・カフェを運営する自分たちの活動をまた違った視点からとらえる時間になりました。


このプロジェクトがはじまるときに、MurasakiPenguinTotsukaさんという美しい表現できる空間が戸塚にあって、私たちも戸塚で活動をしていて、いろんなご縁が重なって坂本さんとお会いすることができました。アーツコミッション・ヨコハマの助成のもと活動をしているということもあり、アーツコミッション・ヨコハマの方々も一緒に最初に打ち合わせをしたときに、この「声をあげる」という言葉について皆さんと語りあったことを思い出します。

何かその言葉にある強さとは違った、もっと静かで、でも、確実にそこにある言葉たちがある。その声を外に出すのは生半可なことではなく、何ならこの活動に参加することも生半可なことではない。その強い弱いの軸では語れない言葉が、たくさんの日常に埋もれていて、この芸術活動を通してどう浮かび上がらせていくかということが、日本ではとっても大切。ここの土地文化ならではのやり方があるのではという議論をしたのを思い出します。

この戸塚を活動の場所として選んでいただいて、一部ひらいて一緒に感じる考える時間をいただけたことに本当に感謝です。ありがとうございました。


坂本さんのホームページはこちら:https://www.natsumi-sakamoto.com/

MurasakiPenguinTotsukaのページはこちら: