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世界を変えるチカラ

自分のために綴るnote。
年女の幕開け。
地元の神社のおみくじ「大吉」。
良い年を願ってのスタートの気持ちはみんな同じなのに世界は残酷だ。

自分に出来ることってなんだろうと年明けから考えているyumiigoです。

本当に私は非力だ。
何も出来ない。
それが申し訳ないと思うだけで、やっぱり何も出来ない。
思うだけでは世界は何も変わらない。

だからと言って、仕事を休んで現地にボランティア活動にすぐさま行けるわけじゃない。
それが助けになると思うのも視野が狭い思い上がりだ。
個人で勝手に物資を送るのだって今は禁止されている。
物資の輸送すらままならない状況に、個人レベルの判断は返って足を引っ張ることにさえなるんだろう。

妄想だけなら自分が現地に降り立ち、テキパキと支援活動をしている姿をイメージして、私だって役に立つかもしれないなんて安易に思ってしまう。

でも現実の私は変わらない日常の中で、テレビやネットから入る情報の断片に心を痛めて涙ぐむくらいのことしかできない。

私の妄想が無駄にポジティブなだけで、実際に現地に降り立ったところで、右往左往して狼狽えてしまう自分の方が現実的な気さえしてきた。

"何もしないことが正しい"なんて答えは好きじゃないのに。

樹齢何年くらいだろう

個人での判断と、グループや組織での判断はイコールにはならない。
こうした方がいいと思うことは、個人レベルでは良くても、大人数に対しては良くないことなんてざらだ。
だから混乱するし判断に苦しむんだろう。

目の前の1人を助けられることと、見えない大多数を助けること。
両方が可能な方法はないのか。
ルールと規則と、イレギュラー対応。
どちらの判断が正しいのかなんて、結果論でしか答えられないだろう。

決断をするための判断材料がどれだけ集められるか。自分の感情や偏見がないか、どれだけ全体が見えているのか。
私の考えるベストはみんなにとってのベストになっているのか。

結局のところ私に見えている世界には限りがあって、そこから得た判断材料を頭の中でこねくり回して導き出した行動さえも、自分の思い通りの行動結果にならないことの方が多い。
それに咄嗟の出来事なんて、感情で動いてしまうものだし。

結局のところ今自分が後悔しない判断を都度していくしかないんだ。
後から後悔に変わるかもしれなくても。
それも含めて自分は"決断"をし行動するしかない。
咄嗟にとった行動だって自分の中で良しとするしかない気がする。

自分ではどうしようもできないことの方がほとんどで、私が決めて出来ることなんて本当に少ない。

でも私の些細な言動は、私の想像も追いつかない所まで波紋のように広がって知らない人にまで影響を及ぼしている。

私が今、ここに立っている。
それだけで世界を動かしている。

人が私を避けて歩いたことで、この人の時間操作をしたし、電車やバスに乗り遅れることもあるかもしれない。
お互いにそれを干渉したことにも気づかずに世界が動いている。

なんかそんな諺あったよな。
"風が吹けば桶屋が儲かる"ってやつ。

昔の人だってそんなこと分かっていたのに、私は本当に最近になってやっと身をもって分かったというか捉え方が分かった気がする。

昔の私はそれを過敏に捉えすぎていて、歩行者用の信号機のボタンさえ押したくなかったんだ。

どんなに小さな行為も世界に響く。
私の言葉も誰かの時間をこのnoteで数分支配する。
それがこの世界に干渉している。

どうか私の微力が良い方向へ世界を繋ぐものになりますように。


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