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「たましひ」は何処へゆくのか~永井陽子の霊的世界

はじめに
永井陽子の作品世界は、異界や遠い過去と交感し、魂や心をみつめる豊かな霊的世界である。本稿では、永井の短歌に表現された霊的なるものの姿と行方を追ってみたい。
 
過去世への憧れ
 遠い過去への憧れは、まず第一作品集『葦牙』の次のような歌に現れる。

  心にできた大きな空洞 地に伏せば太古の風の音が聞こえる

『葦牙』

 続く『なよたけ拾遺』は、「竹取物語」と加藤道夫の戯曲「なよたけ」を下敷きにした歌集タイトルからもわかるように、全体が過去世を志向しているといってもよい。

 いつの世の昔語りの竹の里 をさなきひとのまみに照る月

「をさなきひと」はかぐや姫でもあり、そうでない幼児でもよい。昔の月と眼前の月とが溶け合うような、重層的な一首である。

第三歌集『樟の木のうた』以降、過去の者たちは名指しされ姿をくきやかにすることが多くなる。

 夜空にも雲あることのあたたかさ馬寮むまのつかさの舎人もねむる『樟の木のうた』
 振り向けば官位のことを気に病める定家もゐたり秋の陽のなか『ふしぎな楽器』
 碧天(へきてん)を震撼せしめ 信長の罵詈(ばり)雑言(ざふごん)の一オクターブ『モーツァルトの電話帳』
 頼朝は底意地悪く笑まふにや 鶴岡八幡宮に雨降る『てまり唄』

 馬寮の舎人、定家、信長、そして頼朝の姿態が生き生きと描出されている。

遺歌集には、より己の状況に引き付けた次のような歌が見られる。

 こんな時古代人は何を食べたかとふと思ふ病院の日暮れは 

おそらく病の中にありながらも、古代へと思いを馳せる姿勢は変わることがなかった。

異類のものー鬼と神
異界ものが現実へ侵出してくるというより現実の世界が異界(過去世を含む)の一部でしかないのだということを表現するかのように、永井の短歌には異類のものが出現する。

とほいむかしに人魚がきし海の息瓶子の水を飲めば聞こゆる

『樟の木のうた』

 遠い過去の人魚の息を聞きとってしまうのが、この歌人の耳だからである。

 殊に鬼と神には注目したい。「神」を異類のものと呼ぶのは違和感があるかもしれないが、古代において「鬼」の字が「かみ」とも呼ばれていたこと、何よりも永井の作品世界に於ける扱われ方によって、ここでは神を異類者に分類したい。先ずは鬼である。

  かごめかごめうるしもみぢの輪の底ひちひさき鬼は眸を閉ぢてゐる『なよたけ拾遺』
  いつぴきのうさぎいつぴきの鬼さへもわがものにあらねど雨後の街映ゆ『樟の木のうた』

 『なよたけ拾遺』に収録された短文のうち二つ、一つは妖精に想いをよせる邪鬼を書いた「邪鬼の見たもの」、いま一つは「散佚物語集」の「秋」にも現れているように、永井にとって「鬼」は大きく恐ろしい存在ではなく寧ろ小さい愛すべきものだったようである。むろん鬼である以上禍々しさもあり、それをあえていつくしむのがこの歌人の特異な態度の一つである。

 次に神。

  神とあなたの間に私がいるという まわれまわれよ回転木馬

『葦牙』

の「神」はキリスト教的な唯一神であるという印象がある。ジッドの『狭き門』のような、信仰によって想いを邪魔されることへの批判の思いが込められているようである。

  雪解どき小さい木偶でくの形してさやかに神は流れてゆきぬ

『葦牙』

になると、前述の「鬼」へのものと同じような柔らかい眼差しで詠まれている。

ひとの世のなにか永遠なる神もまた草木を食むとすこし笑へり

『なよたけ拾遺』

 などもそうである。しかし『樟の木のうた』を境に鬼や神など言葉は激減する。それに代わって頻出するようになるのが「仏」である。

仏ー懐かしさの源


微生物ひきつれ弥陀はたたなづく青垣を越ゆしたしたと越ゆ『樟のうた』
  
鹿たちも若草のにねむるゆゑおやすみ阿修羅おやすみ迦楼羅『てまり唄』

 永井は歌材として仏像や仏のイメージを好んだ。そこにはしみじみと懐かしく心を寄せている様子が表れている。『てまり唄』以降では、より身近で具体的な仏具(木魚や仏壇など)が詠まれ、見送った父母への懐かしさが加わる。

 仏壇の奥にひろごるタンポポの原にて遊ぶ父母にあらずや

『小さなヴァイオリンが欲しくて』

歌では懐かしさを「タンポポの原」が象徴しているが、タンポポはまた魂に関わる花でもある。

  タンポポのひとはなごとに宿りゐる父のたましひ母のたましひ
  月の夜にいづこへ発ちてゆかむとすたんぽぽいろのたましひひとつ

『小さなヴァイオリンが欲しくて』

 この他にもタンポポと「たましひ」をとも
に詠んだ歌が何首もみられる。では、永井にとって「魂(たましい・たましひ)」とはいかなる存在だったのか、次項でみてゆきたい。

たましひーそして死へと至るあそび

  たましいはうすぐれの街に切る十字すりぬけながら さやげ群竹

『葦牙』

 ここでもまた、「切る十字すりぬけながら」にキリスト教的なものへの批評的思いが表れている。

  空へかへる父が抱きてゆきしかな虫のたましひ樹のたましひも

『なよたけ拾遺』

 父への思いと自然界のものへの心よせが調和した一首である。

  胸に指組みねむる癖 たましひのあそびは死へと至るあそびぞ

『小さなヴァイオリンが欲しくて』

 遺歌集にはこのような歌もある。次項では「死」にまつわる歌についてみてゆく。

死ー父母、そして自己のものへ

うすみどりの野原に欠けた土器を抱く日 夭折という言葉を知りぬ

『葦牙』

 初期からこのように死のイメージを描いていた永井の短歌作品。

  逝く父をとほくおもへる耳底にさくらながれてながれてやまぬ『なよたけ拾遺』
  現職の死亡が多き窓のそと柿はしづかに熟れてゆきたる『ふしぎな楽器』
  人間はぼろぼろになり死にゆくと夜ふけておもふ母のかたへに『てまり唄』
  卓上に飾る たとへば明日死ぬにしても 小さなマリーゴールド『小さなヴァイオリンが欲しくて』

 
 上のように、他者や父母の死を詠みながら次第に自分自身の死について言及する歌が増えてゆく。
 その理由は、「心(こころ)」という語が詠まれた歌を追うとみえてくるかもしれない。

抽象的な「心」から手ざわりのある「こころ」へ

シベリアの青き地図など描きつつ心の破片を集めていたる

『葦牙』

 
 第一作品集にこうした歌があり、やや生硬で抽象的ではあるが瑞々しい若き永井の「心」がうかがえる。「青き地図」の「青」は青春の「青」でもあろう。その後、

  木に添へばいまだをさなきこころもてみどりの明けに聞きゐるロンド『なよたけ拾遺』
橋上を過ぐるこころよ解かれよとわが影を先に歩ませてやる『樟の木のうた』

 など「こころ」を伸びやかに遊ばせるような歌が『なよたけ拾遺』『樟のうた』にみられるが、『ふしぎな楽器』『モーツァルトの電話帳』にはほとんど「心(こころ)」の語がみられない。そして、

  心不調ゆゑにしばらく休みます 雁来る頃の表札に記す

『てまり唄』

 という歌を生前出版された最後の歌集に収録したのを前兆のようにして、遺歌集にはおびただしい「こころ」の語が現れる。

  閉ざされておのがこころのあづき色くつくつと煮る冬のいちにち

『小さなヴァイオリンが欲しくて』

 寒さに閉ざされた心身。その「こころ」を小豆色としてみつめ煮詰める。このような、自己の「こころ」を掌においてみつめ、ときに追い詰めてゆくような歌がたいへん多い。
このような「こころ」の状況が、前項で述べたように「死」を己のものとして近しく詠むようになっていったこととリンクしているとはいえまいか。

おわりに
 『永井陽子全歌集』(2005年、青幻舎)を霊的世界という視点から読むとき、そこには歌集によって表現法を変えながらも、遥かなものに憧れ、己のこころを清くするどく澄ましつづけながら作歌に向き合った歌人の魂の在りようが浮かびあがってくる。永井の「たんぽぽいろのたましひ」は彼女の歌を読む者の内に灯り続ける。

(2019年度短歌人評論・エッセイ賞応募作)

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