エッセイ+短歌「夏休み」
とくにクラブ活動をしていたわけではない小学校時代の私の夏休みといえば、ほぼ毎日(!)家の近くの屋外プールで遊び、図書館で涼みながら読みたい本を思いっきり読み、帰宅してはアイスクリームを食べて昼寝する……という天国のような生活でした。
プールで「遊び」と書きましたが、「泳ぐ」というよりも一人で浮かんだり沈んだりしていることが多かったような気がします。それの何が楽しいのかといいますと、水の中で聴こえるごおんごおんという不思議な音(今思えば給排水の音でしょうが)に、どこか別世界からの呼び声を感じたり、プールサイドに迫って植えてあった桜の木が水面に映り、まるで枝が根のようで、水中から夏空へ向かって生えているようにみえることを飽きずに眺めたりすることに喜びを見出していたように思います。
まあ、そんな生活を送っていますと、当然ながら宿題はたまっていくわけです。読むのも書くのも好きなのに「書かされる」のはキライという生意気な性質を持っていたので、読書感想文も日記もやっつけ仕事になるのでした。(親の監督があった小学校時代はともかく提出はしていましたが、高校時代になると、文芸部員で図書委員であったにもかかわらず三年間いちども課題の作文を出さない、という所業に及びました。先生方、申し訳ありませんでした。)
大人になってある年の日記を読みかえしていたら、最後のページに「きょうは、たくさん日記をかいてつかれました」とあったので驚愕しました。それに対する先生のコメントが、普通に「楽しい夏休みでよかったですね」だったことにも少し驚きました。
日記をねつ造するということは思い出をねつ造するということだと思いますが、それは今も日々、創作活動のなかでやっていることです。私は短歌を実際の経験に基づいて詠むほうですが、友達の恋バナに触発されて自分のことのように書いたり、事実をすこし演出して作品にすることもあります。時間が経つと記憶があいまいになって、全部ほんとうにあったことのように自分でも錯覚してしまうのです。あの夏の日、逆さに生えていた桜の木のように、土に根ざさない空中の思い出。それもまたよし。と近頃では開きなおっているのですが。
※初出「楽詩」2016.8.10 晩夏光号
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