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もうひとつのその5 他の意訳

 今回の陀羅尼(普賢の陀羅尼)と、先の陀羅尼(陀羅尼品の陀羅尼)の仏教的通し訳。それぞれができた時の喜びは大きかった。
けれど、‘’釈迦は呪文の類を否定していた‘’という情報を得たこと、現実に様々なことが起こり始めたことで、その通し訳に対し徐々に違和感を感じて始める。(‘’もうひとつのその4‘’で記した思いは、その頃の言葉にならなかった違和感が、今になって抑えられずに出てきたものである。)

そんな中でふと、‘’個々の単語の他の意訳ってないのかな__。‘’
と思いつく。そして毎日の生活の合間に、図書館や書店を巡り法華経・陀羅尼呪関連の本を探した。
でもここは田舎、そして欲しいものは余りにもニッチだった。
探し物は見つからない。
仏教系大学に聞くこともチラッと考えたが、それはとりあえずスルーした。‘’意訳してはならない。‘’と言われているものだからである。

思いつくままに探し始めてどれくらい経った頃だろう。ネット検索でひとつの文献が引っかかった。
それが、‘’法華経陀羅尼呪の覚え書(塚本啓祥著)‘’である。先の陀羅尼(陀羅尼品)‘’の最終意訳の際にも参考にさせていただいた。
法華経陀羅尼呪は、インドから様々なルートで伝わっていった。翻訳され語形の変化も多く受け、今ではそのそれぞれの語源を推定することしかできないということだった。
この文献では、一つ一つの単語の推定しうる語源の様々な形態を併記している。ちょっとした語尾の違いで意味が変わってくるようで、かなり詳細に書かれている。勿論、どれも形の上での仮説であって確定ではない。本当の意味は、深い‘’文化史的考察を基盤として解明されるべきもの‘’と述べられている。

それを私は、‘’文化史的考察‘’ではなく、‘’自分の感覚や経験‘’を基盤として解明しようとしていた。

すでに何年も陀羅尼に取り組んでいた。そしてそこには、深い心の世界のことが書かれていると知った。仏教的意訳だけを見てもわかる。
けれどそれを超えて自分が納得する別の意訳を作り出すには、自分自身の言葉でそれを新たに紡ぎだすしかない。
陀羅尼を作り上げたのは、時代背景も環境もきっと何もかも違う誰かだ。
それでも、その心は私と同じはずだと思った。自分の心の中にもその人と同じものがきっと存在する。その思いは、次々と自分に起こり続ける現実を見ているうちに、確信に変わった。
宗教色のない実体験からくる思い。自分の感覚と経験。
それらを拠り所として、もう一度対峙していく。
そのそばにはいつも、会うことのない誰かがいるような気がしていた。


参考文献:

法華経陀羅尼呪の覚え書
著者・塚本啓祥
発行者・法華経文化研究所