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命をかける

キリスト教において、最高の愛は他者のために自分の命を捧げること、とあります。
イエス・キリストが人間のすべての罪を背負って、十字架にて葬られ、三日目に蘇ったことによって、人類の罪が贖われました。
なぜ、そんなことをしたのかは、旧約聖書から学ぶ必要があり、膨大すぎて省略いたしますが、人のために命を捧げるということが、キリスト教での最高の愛であるということは間違いないことです。

死んでお詫びをしますって言いますけれど、死んで詫びられても迷惑だし、困ってしまいます。
命を賭けると言いますけれど、危険なことばかりではなく、一生涯を通した大きな仕事に対しても遣う言葉です。

ひとりにひとつ、平等に与えられた命に、平等に与えられた一日24時間。
それがあと何日あるのか、何年残されているのか。
命を測るには時間を使うとわかりやすいと思います。

時間というのは、1秒も休むことなく、サボることなく、刻まれていきます。
その時間を、自分の命にしっかりと刻むことができるのか。
今日1日をどんなふうに過ごしたのか。
平均寿命から割り出した残りの時間を思う時、うかうかと、ぼんやりと過ごしてはいられないような気持ちになってきます。

命は時間と同義だとしたら、命をかけるというのは、どれだけの時間をそのコトに費やしてきたか。その人に捧げてきたかということになるのでしょう。
あなたのために命を捧げます、というのは、自分の時間をあなたのために遣います、ということです。
そして、自分の人生を自分に捧げるというのは、自分の使命のために、大切な時間を遣うということになります。

勉強でも、遊びでも、スポーツでも、何かの道を極めるためでも、たまにはゴロゴロと自分をリラックスさせることでも良いです。
自分のために自分の時間を遣うこと、さらには、大切な誰かのために自分の時間を遣うことが、命を捧げることにもなるのだと思います。

最近は電話を掛ける前に、事前にメッセージで電話の約束を取り付けることが常識になってきているようです。
それくらい、他者の時間を自分にさいてもらうことに、思いを致すことが必要とされています。

以前、通りすがりに聞こえてきた老年女性二人の会話を時折思い出します。
電気屋さんに来てもらったのだけれど、部品代が数百円で、出張費が2千円も取られたと、その女性は話していました。
部品代は数百円でしょうとも。出張費が2千円というのは、むしろ安いのでは?と思ってしまうのです。
モノが壊れても直せば使えるとか、用事を誰か知り合いに頼むとか、そういう時代もありましたけれど、今は他者の時間を奪うことは、最大の罪ではないだろうかと思うのです。時間=命なのですから。

してあげている、という意識ではなくて、自分がしたいからするという気持ちで、自分にも愛する誰かのためにも、見ず知らずの人にさえも、自分の時間を遣って、献身をすることが、命をかけることなのではないでしょうか。

命をかける=死ぬということではなくて、使命に生きること。誰かと共に過ごすこと。それも命をかけていることなのだと思います。

さて、今日一日、何に命をかけましょうか。

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