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第110回看護師国家試験

わたしは、いま実家にある自分の部屋のベッドでnote.を更新している。
実家に帰って来たのは久しぶりである。実家は自宅より1.5時間のところにあるのだが、感染を恐れ自粛していたのである。
母がある癌のステージ5であるためである。
実家に帰ることに対して躊躇していたわたしを見兼ねた父親が車を出して迎えにきてくれた。

結論。帰ってきてよかった。
昨晩は、久しぶりに会えた母親とベッドに対面で腰掛け近況報告をしあった。画面越しでは得られない何かがやはり対面ではあると思う。

親と同居していないと、年に数回しか会えない。その数回×残された余命を考えると、
わたし達には、果たして何時間残されているんだろうかと頭を過ぎる。

両親と会える時間はわたしにとって大切にしたい時間の「いま」である。

さて本日は看護師国家試験でしたね。
受験されたみなさま お疲れ様でした。

COVID-19下での受験を乗り越えて、試験日に体調と気持ちの標準にあわせられた自分を褒め称えてほしい。拍手して抱きしめてあげてほしい。
今日までの努力は、心がポッキリ折れてしまいそうになった時の接着剤になってくれると断言する。
わたしは、国家試験前が人生で一番勉強した2ヶ月だった。1日15時間を超えて勉強した日々の自分を誇りに思っている。

受験した日の前日を鮮明に覚えている。
そう。当日の記憶は余りないのだ。試験後に部活のメンバーでどこかのカフェに集合し採点してみんなで涙を流し抱き合った記憶しかない。


なんだか、こう、文章にすると
青いな。

受験の前日、心が浮ついてしまったわたしは、近所のスタバで苦手分野の過去問を再度解き直していた。そして受験生が100%所持していると言っても過言ではないレビューブック(医学単語の辞書のような参考書である)を読み直していた。
その時、わたしの横に腰をかけた二人組のお姉さま方が愚痴りはじめたのである。
確実に話の内容が医療者であり、かつ看護師であった。


そのときは、お姉さま方が愚痴を言うのが信じられずなぜこうも悪口が止まらないんだろう。合格して看護師になってもこんな看護師になりたくないと強く思った。
心が強く揺れたからだろう。座っていた席も、着ていた服も持っていたものも8年経ったいまでも、鮮明に覚えている。

彼女たちのようになりたくない。そう、思っていた。
いまの私はどうだろうか。
彼女たちのように不平不満をこぼすだけのひとになっていないだろうか。
愚痴も大事だ。ガスを抜かなければ、破裂して元に戻せなくなる。そしてクリティカルシンキング(批判的思考と呼ばれ、考えを客観的に判断する考え方。)は看護師にとって大切な思考である。
しかしこのクリティカルシンキングのおかげで、感情が不在になったわたしがいる。日常生活でも最適解とされる正解を追い求めて、選択を繰り返すうちに己の感情を置いてけぼりにするクセがついてしまった。
心躍る選択ではなく、安全パイをとるつまらない選択をしていないか。

それが本来、良い悪いの判断をするものではないとわかっているのだが
わたしにとっては個性が消えてしまったようで、それが弊害であるように、いまは感じている。
いま、わたしは「いま」の自分の感情にフォーカスをあてる練習をしている。
これは失恋後、失恋というグリーフと向き合うためである。

だからわたしはこうしてnote.にいまを綴っている。
そして、どこかに住んでいる誰かに「いま」をそっと共有してほしいのだ。

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