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コロナ禍三度目の春に想う

束の間の平穏

デルタ株が落ち着いて2021年10月から11月はそれまでの緊迫した雰囲気から少しホッとした空気だったと言えよう。久しぶりに姉や旧友に会ったり、母を連れて上野の美術館へ出向き、やっぱりこういう時間も大切だと実感していた(母も前の家より上野へのアクセスがいいのが分かったのか「今度はフェルメール展へ行こうね!」と外出のモチベーションが上がった様子)。

しかし、12月頃からオミクロン株が世界を席巻し、日本も再び警戒モード全開な状況へ。医療従事者なので12/23にブースター接種できたことは不幸中の幸いだが、オミクロンへの感染予防効果はこれまでより期待薄とのことで年末辺りから再び半引きこもり生活へと突入した。

父の三回忌法要もオミクロン流行と重なってしまったため、結局母と私だけ墓前に出向いて僧侶に読経してもらい、その後母のところで夫も交えて簡単に会食というかたちにした。生前父は三回忌法要まではやってほしいと希望していたが、まさかこんな状況になるとは夢にも思っていなかっただろう。

年明け以降SNSで繋がっている人も複数「感染しました」と報告しており、これまでとは明らかに感染が広まり方が凄まじい。「子どもの学校や保育所で感染者が出て休みになったから出勤できない!」と頭を抱える話もあちこちで耳にした。

非常勤先の保健センターでもそんな状況の中ブースター接種に5歳~11歳の小児への接種も…とてんやわんやな状況が続いている。もうまる2年こんな感じなので、正直保健師たちの精神状態が心配になっている(とは言え、私ができることなんて保健師たちの愚痴に耳を傾けるくらいしかないのだが…)。

時の長さを実感する

発達相談も先方の体調不良によるキャンセルはあるが、細々と続けてもらえている。これも担当スタッフたちの「親御さんたちが悩みを話せる場を確保せねば」「コロナ禍だからこそ、子どもたちの成長をフォローする体制を守らねば」という使命感があるからなので、本当に頭の下がる思いだ。

そして、最近2歳~3歳前後の子どもたちに会うにつけ、運動や社会性についてコロナの影響を改めて感じている。彼らの姿を見るにつけ、この子達がここまで大きくなる期間ほぼコロナ禍なのか…!と大人として申し訳ない気持ちになっている。

彼らが生まれて間もなくコロナ禍となり、他世代が当たり前にできた家族以外の人との触れ合いが圧倒的に少ない。感染予防のため外出経験も少なく、周囲の大人たちも気を遣う日々が続いている。

もちろん子どもたちを気の毒がってばかりもいられない。感染症対策をしながらできることを少しずつ考え、実行していくしかない。もっとも大半の子は彼らが元々持っている柔軟な適応力で何とか凌いでくれるだろう。

一方でその適応力があまりない、もしくは諸事情により経験を積みづらい環境下に置かれている子どもたちへの支援は待ったなしだ。大抵の場合家庭環境や経済状況など他の問題も絡んでいるから周囲の関係者と協力して状況改善を図る。

最近相談業務で感じるのは「私達が人ならでは、と思っていることの多くが実は学習を通して獲得している」ということだ。歩くのはもちろん、食事をする、排泄する、会話をする、作業するといった日常生活の様々なことは膨大な試行錯誤の末に習得したものだ。

コロナ禍でその当たり前の日常の質を下げざるを得ない現状の中、質の低下が当たり前になりすぎないよう意識する必要があるだろう。合理化すべきところと質を下げてはいけないところを見極める目を持ち、必要ならば理路整然と主張する姿勢を持っていければと思う。

何をもって「人」なのか?

介護が必要な時期に差し掛かるとそれまでと反対に学習したものを手放していくようだ。母も「最近だんだんできないことが増えて赤ん坊に戻っていくような感覚に陥ることがあるのよ」と語っている。

ひょっとしたら私達は社会的には成長という過程を経て人になり、老化によって学習前の状態へと元に戻っていくのかもしれない。近代以降社会規模が大きくなり、科学や医療の発展で寿命も伸びたが、それによって従来の感覚だけでは片づけられない問題もたくさん出てきた。

人は何をもって人たらしめるのか?-これについてはもう少し考察を深めていきたいが、まずは友人から頼まれている家族療法の話題あたりから始めたいと思う。

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