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今も昔も、わたしを全部受け入れる〜自分に対する罪悪感の手放し

愛されたいのに、愛されない。

それについて、内観を続けてきて、
「本当は、どんな私でも、まるごと受け止めてほしかった」
という奥底にあった願いに気がつきました。


いろんなシチュエーションで、いろんな人に感じた
その感情を感じ切り、イメージの中で伝える、というのをやった後

あっ・・・と気がついたのは、
そもそも、私自身が、
わたしのすべてを、全く受け止めていなかったという事実。


あれもできていない、
これくらいしかできない、

まだこんな風に思ってしまう、
こればっかりやってしまう・・・
 

自己否定と、そこからくる、焦り。

どんな自分であろうと、
ありのままを認めてあげれていないから
他人に、もっと、もっと、私を認めて、愛して、と求めてしまう。
そして、愛されたいから、頑張ってしまう。
「いい子」でいないと、愛されないから・・・


こんなにも自分を責め続けていたら
そりゃあ苦しいよね・・・とハッとして。

とはいえ、いきなり自分の行動パターンを変えるのは難しい。
少しずつ、ほんの小さなことでも
自分を褒めるようにしたり、
一見「よくない」と思えるようなことさえも、
自分にとにかく寄り添う、ということを
ひたすら繰り返していました。


地道に続けていって、
ほかのお掃除、手放しとの相乗効果、
ということも大きいとは思いますが、

「ただ私でいるだけでいい」という安心感が
私の中に、少しずつ膨らんでいったように思います。



そんな中、ある時、
古い友人から数十年ぶりに連絡がありました。

久しぶりに連絡をくれて、
嬉しいのと同時に、どこか複雑な、モヤモヤした気持ちの私がいて。


どうしてなんだろう、と問いかけて気づいたのが、
その友人と繋がっていた当時の自分のことを思い出して
苦々しい気持ちになった、ということでした。


その頃の私は、
人生で一番苦しいときを過ごしていて。
家族との関係、友人達との関係、自分の置かれている状況、
自分のこれからのこと・・・
絡み合った色んなことに苦しみ、絶望し、
正直、生きる意味が見出せないような日々を過ごしていました。

拒食症でもあったので、
当時は、客観的に自分を見るなんて到底できなかったけど
おそらく、傍から見ると「病んでいる」状態だったなあと思います。

そんな自分のことを、「みじめでかわいそう」だと思っていたのです。


その友人から連絡がきて、感じた複雑な感情。
それは、その当時の自分のことを、
今もなお、みっともない、消したい、と恥じていたから感じたもの。

そして、その頃の私を拒絶しているから、ずっとずっと握りしめていて、
今もその私を生きていた、ということ。



このことに気づいたとき、
自分自身に対する猛烈な申し訳なさが溢れてきて。
こんなにも全力で拒んで、直視しないようにしてきて。

本当に、ごめんね、
もう抱え込まなくていいよ、大丈夫だよ、
ずっとずっと頑張ってきたけど
よくやってきたし、進んできたし、
今の私を生きたらもういいよ、


もう拒むのはやめよう、と決めて
自分に声をかけてあげたら、
やっと、あの頃のわたしを
すべて受け入れることができた気がして。

よくやってたよね、必死に生きていたんだよね、
と自分への愛おしい気持ちが溢れて
涙がぶわーっと出てきました。



思い返すと、私は、どこかずっと
自分に対して罪悪感、負い目を感じて生きてきて。

この罪悪感は、
あの頃の私を拒絶して
「なかったことにしたい」と思う私が、
あの頃のわたしに対して感じていたものだと。

人を求めていたけど、拒絶していたのは、
この「みっともなくて、隠したい私」を抱える、自分への後ろめたさも
ひとつの要因としてあるのかなあと、感じたのです。



過去のわたしをすべて受け入れ、愛すことができたら
気づきが湧き上がってきて

自分の中に、ずしんとあった重い塊のようなものが
ゆるゆると溶けていくような
ぎゅっと閉じていた身体が緩んでいく感覚もあって

気がつけば、ずっとあった罪悪感もいつの間にか消えていました。


自分にまた一歩近づけたような
わたしとの結びつきが強くなったような
私にとって、大切な気づきと手放しでした。

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