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身体や心を疲弊させてまで、ひとりで全部抱え込んできた私を手放す

1週間ほど前、不整脈が出ました。

内観すると、「ひとりで気負って頑張ることが辛い」
ということからきているな、とふっと思い
学生の頃のことが次々と思い出され、
それに関することについてお掃除ワークをしていました。


でも、体調は今一つのまま。
首や頭の痛み、歯の痛み。
時々、胸や胃のあたりにも、ぐっと痛みが出て
息苦しさもあり。

ひとり取り残されて、何かをしていて、
どこか孤独感を感じるような夢を見ることも何度かありました。


この、胸や喉がぎゅっと締まるような感じ、
恐れや緊張感いっぱいで
孤独に何かに向き合うことが辛かったこと。

本当は、
大丈夫だよ、無理しないで、と寄り添ってくれる人とか
緊張を和らげてくれるような人が近くにいてほしかった。



過去を振り返り、一歩進んで自分を観れた、と思っても、
まだ出し切れていない感覚があって胸や喉が苦しく。

いつもなら、この先もひとりで向き合い、
お掃除して乗り切っていたけれど、
今回はなんだか過程もシェアしたくなって、
良美さんに連絡させていただいたのです。


シェアした後で、気づいたのが
そういえば、身体の痛みと不整脈、前にもあったな、ということ。

気づきなどを書いているノートを見返してみると、
それは、ちょうど半年前、今と同じ、日食前。
そこには、「もう、身体を、自分を疲弊させることはしたくない」
と書いてありました。

良美さんとのやり取りの中で、
これ、どこか感じ切るのを後回しにしていて、
ずっと手放せていなかった部分だ・・・と思ったのです。


そこから自分のさらに深い部分へと潜っていき、
あ~ここか~・・・
というところに辿り着きました。




まず、「自分を疲弊させたくない」から思い出したのが
子どもの頃からの自分の在り方について。

小学生、もしくは幼稚園くらいの頃からずっと、
私は身体を、心を、いつもぎゅ~っと緊張させて
「頑張らないと」、「すごい私でいて期待に応えないと」
とひとりで抱え込んで踏ん張ってきたということ。


なんでも、ひとりでできるって、大丈夫だって、
「上手に」、「要領よく」こなしてきたけれど

本当は、不安だし、怖いし、辛い。
それをひとりで我慢するのも怖い、寂しい。

でも、しんどさも、怖さも、
誰にも何も言わず、言えず、自分の中に閉じ込めて
身体にも心にも負担をかけて
疲れ切っているのに、それでも踏ん張って日々を送っていて。


ここで気づいたのが、私の在り方って、

疲弊してまでも頑張る、母や
辛さやしんどさ、色んな感情全部をひとりで抱え、
緊張感を常に持ち踏ん張る、父、そのものだということでした。



テハナシを始めてから、
少しずつ、自分の心や身体の声に従えるようになってきたけれど

まだまだ、他人の顔色を気にして
いろんなことを抱え込んで、疲弊しつつ頑張る私もいたのです。


もう、ひとりぼっちで全部抱え込むのは苦しい、
寂しい、辛い、しんどい。
ひとりで抱え込んで、気負って、進んでいくのはもう嫌だ。



身体中から絞りだすように、
お掃除ワークをして排出しながら、湧き上がってきたのが

自分の人生に責任を持つ、
世界を自分が引き受ける、というのは確かにそうなんだけど、

すべての責任、感情を
私ひとりで抱え込む必要はないんだ・・・ということ。

無責任であったり、責任転嫁する、というわけじゃなくて、
抱えているものを、分かち合ってもらってもいいんだ、と。



これまでのわたしの生き方、在り方って、
疲弊してまで、ひとりで何かを背負う、頑張ることで
物事を思うように、円滑に動かせるかもしれない、と思い込んでいたけれど

実際は、そんなこと全くないんだ、
自分を、他人を、信頼していいんだ、と感覚的にわかった気がしました。



この一連の手放しと気づきは
私というものが根本から覆されるようなもので、
これまで生きてきた自分への赦しとなったというか
緩んでいくような感覚がありました。


でも、ここまできても、まだつっかかりがあって。

ここからさらに深く、自分が避けていたところに
向き合うことになりました。

















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