「わたし」を生きるとは、不安定を生きるということ
松村潔さんが、グルジェフの哲学を引用して、
「安心、安定=眠り」と言っておられるのを見かけました。
この「眠り」とは睡眠のことではなく、
真の人間として「目覚めていない」、「覚醒していない」ということ。
例えば、何かを学んでわかった気になり、安心してそこにずっと留まること。
指導者のような立場の人がいる宗教、グループ、団体の中に入りこみ、
その教えや思想、哲学に依存、執着し、安心を得ようとすること。
それは、自ら思考し、創造し続けることを放棄しているということで、
いわゆる「眠り」の状態、真の人間ではないと。
確かに、「わたし」を生きる、生きようとするということは
常に不安定を生きる、ということかもしれません。
本来の自分の「魂」を生きたくて、
自分に向き合うこと、テハナシを始めてからは
感情は揺れに揺れ、身体の反応もあちこちに出ることから始まり・・・
目の前に映る現実世界も、自分自身の意識状態も
目まぐるしく変化し続けています。
何も起こらず、安心、安定の日々、とは程遠い状態なのですが
それが嫌だとかは全くなくて。
今の私は、むしろ、それに対し能動的になったと感じるのです。
ただ、振り返ると、内観と手放しを始めた頃は
日々揺れ動くその不安定さに動揺し、恐怖をも抱いていました。
よく考えると、自分自身と繋がること、内観するということは
他人には依存できない行為であって。
これを続けることで、自分の「創造性」を少しずつ育んできたのかもしれない、と思ったのです。
抱えていたものを少しずつ手放し、
それとともに意識の状態も上がっていくにつれて
自分の中に「わたし」でいることの安心感が芽生えてきたのですが、
この基盤となる安心感と、
創造性が育まれてきたことによって
今の私は、「不安定」に対しても、それはそういうものとして
能動的な態度でいられるのかな、と。
不安定なもの、そのわからなさにどこか楽しみを見出すなんて
自分の変化にも驚くばかりです。