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2つ目の投稿は、やはり父とのこと。

きょうは、父の生誕100年の日です。
生きていれは100歳🎊😊
夫とささやかにお祝いしました。

父は、約2年半前の、
2021年12月23日に97歳で人生の幕をおろしました。

私にとっては、たったひとりの一親等。だから絆は強く、
「縁」といえば、ここから始めないわけにはいかないから😌

なので、2つ目の投稿として、
2022年12月末にFBにUPしたものを添付します。

#縁を紬ぐ
#親子という縁の不思議
#たぶん人間は霊的存在
#ひとの死の瞬間をはじめて経験させてもらった

こちらからFB投稿の添付です。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

父が亡くなって1年が経ち、先ほどの投稿したものを忘れて、今書いていた文章です↓
重複している内容もありますが、こちらもUPしておきますー


去年の昨日は父の葬儀でした。
ということで喪が明けました。

昨年の12月23日に 父 伊藤治雄が97歳で生涯の幕を降ろしました。


わたしにとってはたったひとりの一親等。

年取ってからの子ども(とよく父が言っていた)だったので、「僕はすぐにいなくなるから…」と子どもの頃から言われ続けていたけど、けっこう長い間守ってくれました。

最期まで私たちのことが心配で心配でしょうがない様子だった。それが長生きの秘訣だったろうとも思います。

私は母を知らず母親にもならなかったので、
ママと呼んだことも呼ばれたこともないという、地球の中でもめずらしい?少数派になってしまいました。

母は私が3歳の頃に家を出たので記憶には2メモリ(別れ際に振り返らずに手を振る姿と七五三の時に口紅を塗ってくれている姿…)くらいしかなく
そんな母も3年ほど前に亡くなったとの知らせが入り、もう一等親はいなくなりました。

私が子どもの頃はまだ日本では離婚数が少ない時代、社会的な理解も助けもなく、仕事も上手くいかなくなっていた父が幼い娘を二人抱えて生きて行くのは、どんな孤独だったろう…と。。

だけどその環境(私にとっての宿命)は、私にあらゆる人間の心模様を見せてくれた。

家の中では、大人が父しかいないので、大人同士の争い(喧嘩や嫌味の言い合い等)は見たことがなく、父は他人の陰口悪口を言った(私は聞いた)ことが一度もない。もちろん母親の悪口も一度も言いませんでした。
だけど、当人に面と向かってはハッキリ言う…そして言ったら根に持たない、という。この性質は私の基本にもなってるのだと思う。

そこから見える世界、ひとの心の本当の優しさ温かさ強さフェアさ美しさ、アピールのための優しさ、競争闘争欲望のための優しさ、承認欲求、カバートアグレッシブ、冷たさ弱さ、差別心、等々。。
子どもの頃から眺めていたこのにんげん模様は今大人になってよりはっきり見えてきています。。

そして、父が亡くなってからのこの一年、ずっと私の横にいて励まし慰め一緒に弔いの気持ちを持って支えてくれた夫。
出会った頃から心が大きく深く強く、広い視野とフェアさポジティブさ、そして想像をはるかに超えていく愛情。。こんな人と夫婦になれたことも、自分の人を見る目に他ならないと思ってる🙂そして父という環境からもらったギフトだと🌍

母を知らないということを恨んだり寂しいと思ったこともあったけど、
いま思うのは、私には母というカルマがなかったのだ…ということ。寂しいと思っていたものは実は自由へのチャンスだったこと。

そして、父性と母性を合わせ持つような、たくさんの音と色の景色を観せてくれる人に育てられ、
けっこう破天荒だったはずの私を手のひらの猫ぐらいにしか思ってないような
これまた大きい父性と母性を合わせ持つような夫と共にこれからも生きていける。
本当に深く質の良い人間関係を知ることができた。

人生とは人間というものの関わり合いから宿命や運命のなかで地球という現象界を遊び味わいつくす旅なのだろう。。
ちなみに、私はどの宗教にも入っていないしこれから先入るつもりも一切ありません。が、目に見えないものは存在するし信仰心と神的なものはあると実人生の中で実感している。
この世界はたくさんの光と影の模様を見せてくれた。
それはひとりの中にもコントラストとしてある。

いま世間では親ガチャとか、ちょっと前でいえば金持ち父さん…等、

世界を勝ち負けや物質至上主義や損得や利害で計るような。。
本当に余計なお世話で。。。

人と人の関係とは、親子や夫婦や友人どんな関係であれ、個性と個性が出会い切磋琢磨して、どう影響し、化学反応が起き、またそれぞれの目に心に何が映りどう感じ、どうバランスをとり、また新しい景色をどう動いて、遊び楽しんでいくかの旅なのだと、、

父を失い1年が経って、この地球上からいなくなり遠くに行ってしまったな…とおもう今、心底からそう感じている。

わたしにとって、この世界を生きる意味は「人間を知っていく」ということに他ならない。
その一人ひとりの中にあるコントラストを知り時には学ぶ。

そしてなにより、自己解決してるもの、フェアなもの、平らかにしようとしている、他者を解放しようと自由に、そして自分自身に そのひと自身にしようとしているひとが大好きだ。

これからは、そういうことが面白いと思えるひとたちと、楽しい人生を歩いていきたいと思っている。

いま心の底から人生を楽しみ幸せだとはっきりと言える。
そう思える命を育ててくれてありがとうと✨

最期の息を引き取る瞬間も私の腕の中だったと言ってもいい。
緊急入院になった病院のベッドで家族皆が集まった中、姉か姪が「苦しそうじゃない?」と、見ると苦しそうに手をのばし起き上がってきたので、駆け寄り手を取ってさらに起き上がらせた。背を叩いてと指で合図をしたので、右手で支えながら左手で背中を叩いていると、ガクッと少し前のめりになった。私は、あっ息が止まったかも…と思いつつ背中を叩きつづけた。看護師さんが病室にきて横にしてください、と言うので、横にした時の父の身体の軽さに驚いた。横にしたあとたん吸引をして少しびくっと動いたり何か痙攣のようなものがあったけど、意識はあのガクッと
した時になくなったのだと思う。。
そんな風に、にんげんが命を引取る瞬間まで見せてくれた。
今の私は、最後があんな感じなら死ぬのもそう怖くないかもと思えてる。あれから私の中の恐怖心は小さくなっている。。

しかも父は病院がきらいで
、この亡くなる数時間前に人生ではじめて自ら「救急車を呼んで…」と言った。
この前日には私は実家に泊まっていて最後の夜は家族は皆実家にいた。
朝すったリンゴとお湯を飲ませて私は家に帰った。
その数時間後に父がそう言い、姪は会社から病院へ、私も家から病院へ行き、最期の瞬間も娘二人と孫が見守る中だった。。
へんな言い方だけど、お見事…としか言いようがなかった。

亡くなる一か月ほど前から体調を崩し、姉から電話がかかってきた、多分意識が遠のいていたのだろう、そのまま亡くなればおそらく老衰だったのではないかな?。。しかし、そんなところで死なす姉ではない😅たぶんたたき起こしたのだと思う、父は「大丈夫よ~」と少し笑いながら起きてきたらしい。
しかし食欲は出ず、だんだん妄想のような、私たちには見えない人がわんさか父に見えはじめ交流しはじめた。
守護霊というものなのか霊なのか脳の中の存在なのか…、昔の同僚や教え子(元教師なので)もいたよう。たぶん三途の川も私と一緒に行った様子だった。
その途中仏教の死への旅のようなことをいくつもした。
寝る前に「お金をちょうだい…」と姉が千円を渡すとこれでは少ない…と、一万円を渡すと大事そうに胸ポケットにしまいその日の眠りについたらしい。
それは六文銭だね…と夫から聞いた。葬儀の日に棺に六文銭を入れて、これもうやった☺️と思った。
自分の意思でやるってやっぱりすごいよな〜と。

本当に人間というものを、その姿を持って隅々まで見せてくれた。
父は関東大震災の翌年に生まれ、戦争中は20才で青春ど真ん中。しかし東京理科大の学生だったため徴兵は延期されていて、戦争には行っていない。その後教師になり、科学系の会社に勤め、会社を立ちあげたが上手くいかなくなり、離婚、その頃わたしは三才だった。そんな波乱な人生の父に育ててもらった私は壮大な人間模様を見れている気がする。

しかも今は空を飛びながら眺め楽しんでいるような旅として。

世の中にはまだまだ戦いの炎は燃え盛っている。
人間とは一人ひとりのその自分自身を知り、自分のその戦いの炎を消していくことだと思う。
それには自分の善や正義の主張ではなく、自分も他人も理解しあおうとし赦していくことに他ならないと。
ゆるされたところからしか、その明るさや光は見えないのではないかと。。
身体がなくなれば、すべてから解放されゆるされていく?
ならば、身体をもったままゆるされている人生もよくない?
その軽やかさ解放感と柔らかさと…お得感😊
そんなものを目指して生きていきたいと思っています。

なんだか…
新しいわたしになっている感じがする、今年でした😊
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

皆さまも良いお年をお迎えください✨

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