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家族の回想 ①(スピリチュアルと内観 )

家族とはいえ当然、別人格。

幼少期から、家族関係にストレスを抱え、
登校拒否や摂食障害、自律神経失調症に悩んだ10~20代の頃。

克服したいと自ら医療の専門職(作業療法士)となり

医学的知識を学びながら、仕事を通して自分と向き合いました。


ただ、当時習った現代医学では、私の抱える問題の外殻部分の理解しか得られず、なかなか核心を掴めずにいる中

仕事中に怪我をして手術し、後遺症が残った為に、医療職の復職を断念する事になりました。

その後、保険の外交員に転職。7年を経て

現在、母の介護をしながら、飲食業の開業。


これまで、東洋医学的、アーユルヴェーダ、
オポノポノ、退行療法、前世療法、ヒーラーカウンセリング、タロットカード、オラクルカード、マインドフルネス、等など


素晴らしい先生方から、ちょっと怪しい占師の方まで、自らを内観する為に、色んな方にサポートして頂きました。


私の癖として、自分の中に答えがあってやりたい事も分かっていても

自分が欲しない物。


望まない物を悩んだあげく、結果的に、自ら首を締めるような、苦しい状況を選択してしまう。

今まで、大体7~8年周期で
親の転勤、進学、就職、大怪我手術、転職や結婚、離婚などの、新たに人生スタートするような転機を、意図せずに繰り返していました。


ただ、色んな仕事の経験を積む事、それ自体は私の望んでいる生き方と理解してます。

なので、仕事を自ら変えた場合は、一定の成果や、自分が納得行く結論が出るまでは辞めません。


しかし、自分で選択しても良い状況に限って
(進学、一部の職業選択、結婚、介護を含)

介護などの止まれぬ、状況もありますが、
まず家族や周囲の人達が望む私の役割は何かと考え、周りから、望まれているであろう方を、自ら勝手に、忖度し選びます。



そこまでやりたい訳では無いのに、他の人でもできるのに、むしろ、
それ選ばない方が良いって分かってるのに

周りに必要とされたい。

承認欲求を満たす為、無理してしゃしゃり出て、首を突っ込む感じです。


経験上、身近な人に困る状況が予測できたならつい、自らお節介を焼いてしまいます。


自ら買って出て、無理して背負って苦しくなる


無意識の自作自演なのか(--;)。


行っては戻り、同じ思考をグルグルして。

ようやく、無意識に思考する習慣化された
ブロックを知り、解除する為、行動して。

最近になって、やっと
大きく断捨離して、未来に向かう思考に集中できるようになりました。

一番救われたのは、スピリチュアルカウンセラーをされる方からのアドバイスであり、
サポートです。

最初のきっかけは、
現在の緩和ケアやホスピスの生みの親
アメリカの精神科医、エリザベス.キューブラーロスの本との出会いです。

人の生と死、魂や、意志の力を理解する上で、スピリチュアルの意義を教えてくれた本です。

あと、沖縄のヒーリングカウンセラーさんからのアドバイスです。

親子間の価値観の違いを、埋めようとして、
互いが、共依存している事に気付かせて下さいました。

もし、アドバイス頂けなかったら離婚して転職し、新たに一人暮しはじめる選択は無かったと思います。

3年前に、父、祖父母が他界しましたが、

私は、精神的な自立を得て
改めて産み育ててくれた家族の存在を大切に思えるようになりました。


これは
その気持ちに至るまでの過程の話しです。


【⠀親子共依存のジレンマ 】


⑴2歳からの記憶

2歳の頃、父が転勤で隣りの県に転勤になった。
私の人生のはじまり、記憶がスタートしたのもこの頃からだ。

父は、高校卒業後に、地元の地方銀行に就職し、24歳の頃に同い年の母と恋愛結婚した。
2人が26歳の時、私が生まれた。

両親の地元で生活していた頃の記憶は、0~2歳当然ながらあまり無い。


きっとストレス少ない生活していたのだろう。
当時の写真の表情を見ても、笑顔の元気な子供だ。


父の転勤で隣りの県に引越し間もなく、弟が生まれた。

田舎の地元に比べ、人口100万都市、都会の生活は、家探しから試練だった。

父は銀行の社宅の入居から漏れてしまい、
道を隔てた隣り区間に立つ、古い2階建てアパートの2階に部屋を借りる事になった。

1Kで4人暮し、台風が来ると外壁が崩れるボロアパート。

色んなバックグラウンドの世帯が、20世帯ほど住む、結果的に、銀行の社宅より刺激的だった。

⑵母の変化

母は優しい人だった。今でもそうだが、特に幼い頃の私は可愛がってもらっていたと感じられるエピソードを良く覚えている。

ワンピースやセーター等をよく作ってくれていた。子供に優しい笑顔を絶やさず、母の前では、安心して喜怒哀楽を表現出来ていたと思う。

ある日、私の中で母の定義に変化が起こる出来事があった。
母を護らなくてはと感じた、些細なきっかけ。


2階のベランダで、ふと好奇心から、格子の間を頭が、すり抜けたので、体全てを格子の外に出してみた。

恐怖心も無く、格子に掴まりながら、1階の庭先を眺めていたら、台所から母が慌てて駆け寄って格子の間から、私を踊り場に引き戻した。

「ミミちゃん!」怒られる。と、身構えたが、母はしゃがんで私の肩を抱き、顔を伏せて「良かった無事で」と泣いていた。

幼心に母を泣かせてしまった罪悪感という感覚を、はじめて知った出来事だった。

その頃の、他の記憶といえば、
母と公園で遊んだ帰り道、不意に道を横切った車に跳ねられて、左足を骨折した。


瞬間、白い車の映像が目の前に、拡大写真として記憶されているのみで、それ以外は覚えが無いのだ。


2歳とはいえ、痛みを伴うエピソードの方が記憶に残りそうな物だが不思議だ。

母の変化の要因には、当然ながら父の存在なくして語れない、

父は、決して子煩悩な人では無い、加えて
如何にも、昭和の亭主関白という感じの人だ。

家事はしない。上げ膳据え膳、母も毎日手を付き、おはようございます。行ってらっしゃい。お帰りなさいませ。おやすみなさい。のご挨拶。

私は、3歳、弟は1歳の頃

母は、専業主婦だった。

この頃夫婦間、家族間の会話は少なかった。

父が居ると、和気あいあいと子供がはしゃげる雰囲気では無かった。


言われた事に答えるのは良いが、必要以上の会話と父が感じたら、「うるさい」「調子に乗るな」と怒られた。

そんな父も、決して家族サービスをしない人では無い。幼児期、弟と、お風呂に入れて貰っていた記憶が数回ある。

家族で外食したり、車で出掛けたりもよく覚えている。ヘビースモーカーで、趣味はパチンコ、麻雀、魚釣りが好きで、よく釣った魚を食べさせてくれた。


ただ、現実主義で、感情の機微を文章で伝える文学の世界、芸術など評価の物差しが曖昧な分野が嫌いな人だった。


短気な感じで、コミュニケーションも、一方通行なやり取りの会話が主だった。長い話しをめんどくさがる印象だった。

母は何をするにしても、父に相談というよりお伺いを立ている様子だった。

仕事の帰りが深夜になる事も多く、毎日不機嫌な表情で、母に小言を言っては、怒鳴る事も多かった。


いつも母は、いつも謝っている。


家族の会話も、何となく、父の機嫌を損なわないように、

父は怖い人、口うるさい人、母を悲しませる人という印象を持つ様になっていた。

母は「すいません自分が悪いです」と言う。


そんな父と母の姿に、子供ながらに困惑したのを覚えている。

父は、仕事のストレスから、家でイライラした様子を見せたり、感情的に怒りを家族にぶつけて発散している雰囲気だった。


言葉の内容も、母の身体的な特徴から、
子供の教育について、「役に立たない人間」や、「身長や体格が小さい」等を繰り返し揶揄していた。

母は悲しそうに、ただ子供達には
「お父さんお仕事大変だから」と、フォローしていた。母は父を怖がっている様子だった。

母のストレスが、当時の私には理解できない訳では無いが

ある日の朝、寝起きの悪い私を、急に母が
声を荒らげて、蹴る事があった。


母の豹変に驚いて呆然として言葉が出なくなってしまった。


ただ、母はこの事以後、感情をぶつけるような怒り方はしなくなった。

弟が、2歳になる頃、
早朝から4時頃、母は自転車で15分程の公民館に毎日通うようになった。

(次回、⑶転勤族には、コミュニティが大切)

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