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赤毛のアンが教えてくれるもの

 わたしは赤毛のアンが大好きです。中学生のころだったでしょうか、夢中になって読みました。おとなになって赤毛のアンに再び出逢い、子育てがおわってまた読み返しました。

 アン、マリラ、マシュウ 3人のやりとりが実におもしろく、たくさんの子育て世代に届けたい物語です。子どもの書物にしておくのは、もったいない気がします。

 マリラとマシュウは仕事を手伝ってくれる男の子を希望していたのに、やってきたのは女の子。女の子が苦手なマシュウですが、早々にアンが大好きになります。女の子では役には立たない。そうわかっていても、マシュウはこう言います。「わしらのほうで何か役に立てるのではないか」

11歳で引き取ったので子育てとは少し違うかもしれません。それでも、育ての親になっていくこころの描写はとても興味深いものがあります。

 長い間つかわなかったのでさびついてしまった微笑。マリラのことがわかりやすい描写です。微笑どころか、大笑いするようになるマリラ。アンの手が自分にふれたとき、身内のあたたまるような快いものがマリラの胸にわきあがったという表現もあります。スキンシップが持つ力は、今も昔も変わらないものですし、物語のなかの作り話ではありません。人がもつこころの在り方をかんじさせてくれる、何でもないことですが、無邪気な少女がマリラに与えるものは感謝と愛情そのものです。

 マリラはマシュウにアンを育てるのは、わたしだから、口を出さないようにといいます。その言いつけを守りながらも、マシュウは時にふれ、言葉数は少ないながらも、アンへの愛情を素直に表現しています。子育てに一生懸命だと周りに意見されると腹が立つもの。きょうだいでありがなら、夫婦けんかのよう。今の生活のなかにでも出てきそうなシーンも多くあります。口数の少ないマシュウではありますが、自分の意見をゆずらないことはマシュウの方が上手です。マシュウはアンの気持ちがよくわかるようで、アンはそんなマシュウの存在がうれしくて仕方がない様子です。気持ちを分かってもらえるのはうれしいものね。いいセリフです。自分がどうしたい、それを優先させてしまうのが親ではありますが、子どもがどうしたいのかを考えてあげることも大切。思い切って経験させてみる、ときには勇気も必要なのですね。親の考えで子どもたちの経験は変わっていきます。マリラとマシュウのコンビはアンには心地よい加減。理想と現実。どんな経験を子どもたちに与えていくべきなのか、親子であっても感性は違うもの。腹が立っても身近な家族の意見の存在はかたよりをつくらず、よい「加減」を作り出していくものだなと思います。

 マリラは口うるさい印象がありますが、ここぞというときに決して愚痴を言わないことです。ダイアナの家の屋根から落ちて足をけがをしたアン。そのおかげで仕事がふえ、さらに手伝ってもらえない分、大忙しです。アンが意地をはらなければ、けがをすることもなかったのですが、マリラはけして文句を言いませんでした。こうしたことって、日常にあるものですね。余計な仕事を増やす。子どもはけしてそういうつもりではないものです。言っても仕方がない愚痴は言わない。マリラのセリフには何度か出てきます。済んだしまったことに決して愚痴はいわない。こころがけておきたい、大切なことです。

 マリラにとってアンのおしゃべりは、うるさいくらいでした。でも成長とともにアンはとても落ち着いてくるのです。口数も減り、マリラは何とも言えないさびしさに襲われるのです。子どもの成長を寂しく思う気持ちもとても素直に書かれています。うれしいはずなのに、寂しくて仕方がない。不思議な子育ての感覚です。

 世の中にはたくさんの子育て本が存在します。子育て本を読み、はりきって子育てできるのであればいいのですが、逆に悩みが増えたりもします。こうしなければいけないという知識をふやすよりも人として大事なこと、こうした昔からある物語の中からも学ぶべきことはあるように思います。育児に答えはあるようでないのです。わたしたちには、物語の中にでてくるような丁寧なお茶の時間は持ちません。でもたまには手作りでなくてもおいしいお菓子と素敵なカップでお茶の時間を持ちたいなと思うのは、わたしだけでしょうか。たまに読むにはよい子育て本。たまにはこころを休めてみることも笑顔のなれるコツだと思います。

 私の好きなセリフはたくさんありますが、アンがはじめて4日間留守にした日、ふたりにたくさん旅のお話をして、最後にこう言います。

でも、いちばん良かったことは家へ帰ってくることだったわ。

 わたしたちの子育ても、ずっと一緒にいたわが子がやがて家族と離れて旅行なども経験していきます。家に帰るという普通のことに喜びを感じる。これこそが家族。なにげないけれど、あたたかい素敵なセリフです。

 普通の暮らしに、しあわせがいっぱい詰まっています。だからこそ、子どもは失敗をいっぱいします。事件もいっぱい起こします。時代の違いはあるけれど、人への向き合い方は今の時代でもこころに響いてくるものがたくさんあります。理想通りに対応できなくてもいい。ときには怒り、ときには迷い、なによりも笑ってしまう方が多い。事件を繰り返すたびに、アンへの想いを確認することもあります。なによりも、他人のせいにしたりしない。だからどんなことも、嫌な気分をしないで通り過ぎていくことができるのだなと思います。

 愛情は、素直に表現したい。気の利いたことばなんてなくてもいい。大事なことはきちんと伝える。家族の普通のやりとり。こころのやりとりが、人生の基盤をつくっていくものです。

 スマホの手を休めて、たまには懐かしい物語にふれてみてください。ほんわかした気持ちになり、自分の気持ちがすこし子どもに近づけるように思います。力がいっぱい入りすぎず、こころをふわっと緩めてみると、子どもの表情ひとつ、ていねいに向き合えるように思います。

 愛情を知らずに育ってアン。亡くなった親の愛情をそのままこころに残していたかのように、想像する世界に支えられ続けていたように思います。ファンタジーの世界が子どもたちに存在することも大事なことなのだなと、何となくだけれど感じる。そんな物語です。どんなふうに、その時代をとおりすぎていくのか。とっても大事なことですが、余計なことばは必要がないように思います。考えすぎないほうがうまくいくことってありますね。

 純粋すぎるよろこびを、素直に受け止めたマシュウのこころ。そこから物語がはじまっていくことが、この物語の魅力の一つでもあるように思います。素直に受け止めていくこころ。忘れずにいればきっといい出会いがありますね。



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