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原島里枝・椿美砂子の二人誌「milli」感想

【はじめに】

詩人の原島里枝さんから、椿美砂子さんとの二人誌「milli」(ミリ)を送っていただきました。どちらも実力と実績のある詩人さんです。誌名の「milli」はラテン語の「千」であり、様々な単位の基本である「ミリ」、そして椿美砂子氏の「ミ」に原島里枝氏の「リ」といった複数の意味があるようです。言葉に様々な意味を持たせる詩というジャンルに相応しい言葉と言えますね。以下に、簡単ではありますが読んだ感想を書いてみたいと思います。以下、敬称については省略させていただきます。


椿美砂子「みり」

ミリメートルをテーマにしたこの作品の「みり」は「夢見る幽霊」の名前です。色のない透きとおる永遠を歩く幽霊。幽霊試験に満点で通った幽霊です。みりが自分について語る描写は実に不思議で豊かで美しい。まるで詩そのもののように掴み所がなく千変万化するイメージが魅力的な作品です。


原島里枝「つめきり」

こちらもミリメートルをテーマにした作品。爪の伸びる長さから惑星間の距離、さらには宇宙そのものまで微小から極大までを描いています。広大な宇宙を思うとき、人はあまりにも小さい。その事実を受け入れることで見えてくるものがある気がします。


椿美砂子「夢みる幽霊」

「みり」にも登場した幽霊の物語でしょうか。「幽霊には熱情はない」という言葉から始まるこの詩は人から幽霊になったことで視点が変わり、世界がこれまでとは違って見えるようになることを示しているように思える。幽霊は世界の夢をみる。夢の中では掛け違えた過去の釦を直すことすらできる。まさに美しい夢そのもののような詩は、限りなく優しい。


椿美砂子「と 死ぬ女」

こちらは幽霊になる前、これから死ぬ女の物語。「女というものは/最期まで/女であるものだから」や「女というのは/最期までそういうのだ」と繰り返し定義される「女」という存在。死の向こう側での再会を求める、「女」という存在。男である私にとっては心臓を鷲掴みにされるような詩です。


原島里枝「六等星と野薊」

その昔、「りぼん」という少女マンガ雑誌に萩岩睦美「小麦畑の三等星」というマンガが掲載されていました。主人公は碧穂という中2の女の子で、小麦畑の小麦たちの声が聞こえるなど、不思議な力を持っています。この詩を読み始めたときに、彼女のことを思い出しました。三等星よりさらに暗い六等星と、草原にひっそりと生きる野薊。目立たず寂しい二つの存在は、いったいどんな話をしたのでしょうか。「野花の棘に集まる朝露/光を集めて/朝を迎える」という最終連の、希望に満ちた輝きが美しいと思いました。


原島里枝「砂紋」

海辺の砂の上を裸足で歩き続ける語り手。頭上には海の満ち欠けと共に生物にも影響を与える白い三日月が漂っている。この寂れた町の渚ではウンディーネが歌い、彼女と結ばれながら禁忌を犯し罵倒してしまった男たちが何人も姿を消す。何とも幻想的な設定の中で「否定された存在、残骸のいのち。波は、不要物とされたものたちの怨嗟も辛酸も、風化へと誘ってゆく」「この海に来た者たちは、誰も彼も、ただ傷に擦り込まれた無数の砂粒を海へ還すために沐浴しに来るのだった」「湿った砂は、彼らの血や涙を吸って重く暗い色をしている」と無機物も有機物も含めたすべての衰退や孤独や痛みが綴られる。。しかし作品は決して絶望では終わらず、最後の一行で読者は微かな希望を手に入れる。この詩誌の最後を飾るのに相応しい作品だと思いました。


【さいごに】

以上、お二人の作品を読んだ感想を拙い文章で綴ってみました。まあ相変わらず的外れなことを言っている気もしますけど、「詩は公開された瞬間から、その解釈を読み手の手に委ねられる」と自分に都合の良い思考で誤魔化そうと思います(姑息

実はこの「milli」は全三回の不定期発行の予定だったらしいのですが、諸事情からこの号だけで終了ということになりました。本当に残念なことではありますが、二つの素晴らしい才能が共鳴する瞬間を一度だけでも目撃できたのは幸運だったと言えるでしょう。最後に、いくつもの素敵な詩を書いてくださった原島さんと椿さんに心から感謝いたします。


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