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パートナーが死にたくなったときにできることーうつ病のふたりー

みなさん、お久しぶりです。
今回、考えたいのは「パートナーが死にたくなったときにできること」。これはわたしの実体験を元にして書くものであり、創作などではありません。したがって、少し重い話になってしまいます。精神的に負担になりそうだなと思ったり、あんまり元気がないときに読むのはおすすめしません。
元気があるときに、ゆっくりと読んでいただけたらと思います。

また、これはハウツーを書くものでもありません。なので、実際に「今、身近な人が『死にたい』と言っていて困っている」という方の役に立つかはわかりません。ご了承ください。

わたしのパートナーはうつ病です。(2023年、双極性障害だったことがわかりました)わたしもそうなのですが、少しタイプが違って、とても内向的です。人との衝突や暴力的な感じ(雰囲気)を受けると傷つき、引きずりやすいそうです。それ以外でも、とにかく傷つきやすいと言っていました。

「できるかぎり一人でじっとしていたい」「ずっと家にいて人との関わりをできるだけ避けたい」「生きていたいというモチベーションがない」
パートナーは最近、こういったことをよく口にします。

パートナーとわたしは同棲しており、ほとんどの時間を一緒に過ごすため、こういったことを聞き続けていると、当然ですが不安になってきます。何より心配です。
「なにか自分にできることはないのか」と何度も考えたのですが、いつもまとまりませんでした。なので今回は、そこを整理したいと思います。


「死にたい」「生きていく力がない」という状態

最初に思い起こさねばならないのは、今のパートナーがどれくらい苦しいのかということだと思いました。先ほど、わたしもうつ病であると書きましたが、自分の体験と照らし合わせて考えていきます。

今、わたしが通院している心療内科の先生によると、わたしは恐らく小学生くらいから今に至るまでうつ病なのだそうです。なぜ、うつ病になったかは書くと長くなるので別の機会にしたいのですが、人生のほとんどをうつ病のまま過ごしてきたことになります。
希死念慮が酷いときは慢性的に「死にたい」と思っていて、ご飯を食べても、寝ようとしても泣いてしまったりしていました。
とにかく、ここに存在していることが辛すぎて、「存在している」だけのことが苦しすぎて、どうしようもできず、ただただ時間が過ぎるのをじっと待つしかありませんでした。

パートナーは「生きていく力がない」というふうに言葉にしました。わたしの苦しみとパートナーの苦しみは同じものではありませんが、しかし、耐え難く辛いことの連続が生きているということなのだと思います。

それは何かがあったから感じる、というものではなく、ただここに存在しているだけで常に感じられるものです。何もせずに座っているだけでも、生きていることの苦しみに苛まれるのです。
それは、あらゆることに響いていきます。何をしていても楽しくなくなったり、食事が美味しくなくなったり、頑張っても全てが駄目になるとしか思えなくなったり。

「死にたい」と思う状態と言うのは、本当に辛くて、どうにもできないほどに苦しいのです。

できそうなことをやってみても

パートナーがすごく辛い状態にあることは、前項に書いた通り、ある程度は想像できました。じゃあ、何が自分にできるのか。わたしはとりあえず、家事をやってみました。
すごく辛い上に家事をやらなきゃいけないなんて、しんどすぎるだろうと思ったからです。少しでも楽になってくれるかもしれないとも思いました。

また、話も「うんうん」と聞くようにしました。もとから、人の話を聞くことは大事だと思っていましたが、いつも以上に意識することに。
贅沢とまではいかないものの、美味しいご飯も食べに行ってみました。パートナーも「美味しい」と言ってくれて、わたしは「よし!」となりました。

しかし、一日が終わりに近づいて、夜になるとパートナーはぼつりぼつりとこう言うのです。
「社会と関わらず、静かなところで暮らしたい」「元気がない」「死にたいというよりは生きていくモチベーションがない」
表情も疲れていて、目も虚ろな感じになっていました。

やってみなければわからないものなのですが、自分にすぐできそうなことは何をしても駄目みたいでした。

「頑張って生きて!」とは言えない

そんなふうに辛さを口にするパートナーを目の前にして、わたしは本音では「死んでほしくない」「生きていてほしい」と思いました。本当に強く、そう思いました。
しかし、生きていることが苦しいと言っている人に対して、その苦しみの中にずっと居続けろとは言えなかったのです。

わたしの実体験としてですが、「頑張って!」とか「死なないで!」という言葉はとても痛いものです。
「この苦しみはどうにもできないけど、しんどくても頑張って何とかしなよ!」というふうにしか聞こえませんでした。だから、そういった言葉は必要ないと考えました。

じゃあ、なんて答えるのがいいのか。
結局、答えは出ませんでした。わたしは苦痛を話し続けるパートナーに「うん、うん」と言うだけで何もできなかったのでした。

最低限、できたこと

わたしはパートナーに医師に話すことをすすめました。そして、処方箋をもらうべきだと言いました。即効性のある緩和はお薬だと思っているからです。
今飲んでいる薬では、この苦しみを緩和できない。であれば、違う薬を処方してもらう必要があるのではないかと考えました。

薬を処方されるか、されないか。どちらにせよ、素人がどうこうするより、医師の診察を受けさせる方がいいだろうとも思いました。
わたしも死にたさでいっぱいのときに病院へ行き、お薬で今は死なずに済んでいます。「先生、なんとかしてくれ」という気持ちで、パートナーに診察をすすめていました。

診察の結果、お薬は増量。新しいものも追加されました。

わたしが選んだ「できること」

なんとか診察には行ってくれたものの「もはや、何もできない。恐らくは何をしてもパートナーの辛さを無くすことはできない」と考え始めたわたし。
気付けば辛くなってしまっていました。大変なのはパートナーなのに、そのパートナーの辛さに影響されてしまったのです。
わたしもうつ病だから、ということも関わっているとは思いますが。

ここ二日くらいは、お薬を飲んでもあまり眠れなくなりました。解離症状も少し酷くなっています。

しかし、今日のパートナーは少し元気そうです。「心配してくれてありがとう」と言ってくれました。
お薬が効いたのかもしれません。わたしは少し安心しました。

結局、わたしにできたことは「ただ隣にいること」でした。それは結果として、そうなっただけで、意識して選んだわけではありません。しかし、選択肢として、パートナーから離れる(難しい選択だけども)もあったはずです。ただ、それを選ばずに一緒にご飯を食べ、お風呂に入り、眠るという生活をし続けました。いつもと変わらない生活です。

そして、パートナーの話を聞き、否定も肯定もほとんどせずにいました。本当にただ隣にいただけ。できないことばかりに目を向けがちですが、わたしにできることは「ただ隣にいること」だったのです。

「ただ隣にいること」とは

わたしの「ただ隣にいること」は、愛している人を放さないように繋がりを掴み続けるという感じです。
社会との関わりを極力、持ちたくないパートナーは、わたしがいなかったら「もっと早くにこの世から退場していた」と言っていました。
わたしはそれをさせたくなかった。かと言って、「死ぬな」とは言えなかった。だから、ずっと目の前にいることにしたのです。

物理的に近いところに居続けて、生きていくことをともにする。話せるときは話をし、食事をし、お風呂に入り、ともに寝る。これらは、パートナーをこの世に繋ぎとめる行為そのものだと思います。わたしがパートナーとこの世を繋いでいるのです。これは一時的な方法でしかないと思いますが、一時でも繋ぐことができればいいと感じます。

パートナーと少しずつ治療もしていきたいと思っています。これを書き終えたら、少し眠れそうな気がします。

他人にできることは隣にいるくらいのことだ

最終的にわたしは「他人にできることは隣にいるくらいのことだ」と思いました。それが重要なことかどうかはわかりませんが、そんな些細なことくらいしかできないようです。

実際に今も、死にたさで苦しんでいる人がたくさんいると思います。わたしも薬でどうにか一日一日を繋いでいるだけです。ひとりひとりの苦しみがあり、辛さも人によって変わってきます。
自分に必要なものは何なのか。周りにできることは何か。それらも、人によって変わってくると思います。

どうか、この世に自分を繋ぎとめておける何かが見つかりますように。わたしにできることなんて、ほとんどないけれど。
でも、ひとりで全てができるようになるわけでもないのが難しいところです。これを読んでくださったあなたの隣にも、誰かがいてくれることを願います。

読んでくださってありがとうございました。

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