好きよ 嫌いよ
『小麦色のマーメイド』
懐かしい聖子ちゃんの歌。
口ずさみながら自転車を漕ぐ。
じーちゃん(父)から電話があったのは、やっと起きて、ぼやっと遅い朝食のことなど考えていた時だ。
「お、お母ちゃんのズボンが汚れたから、あ、あれ使うたんや。
お前が用意してくれとったん使うたんや。どこに売っとんや。今洗濯して干した。買いに行くわ。お母ちゃん一人で置いとけんが」
落ち着いて喋ってくれ。
要は、ズボンが足りんのやな?
明日のショートステイのために、私が用意してカバンに詰めていたズボンを使ったんやな?
俺が買いに行くって、ショートステイ明日やん。ちょっと待って。
どっちみち、今日も午後から行くつもりだった。昨日、銭湯に行きたいとじーちゃんが行ってたから。それも伝えてあったはず。
「今、起きたとこ……」
「もうええ、もうええ」
「いやいや、そっち行くし。あたしが買って行くから」
その後、ズボンの説明をされた。
こないだ買ったやつは洗濯したら色落ちした。洗濯機わやや。スルっと履けるやつで、柔らかいやつで、洒落とんとかそんなんえんや云々……。
知ってる。わかってる。
ぜーんぶ知ってる。
行くから!
ちょっと昨日夜中しんどかったんよ!
ちょっと待って!
一回だけ「わーーー!」と叫んで、バナナを一本食べて、着替えて準備をする。
横でビールを飲んで、我関せずな感じでテレビを見ている夫にイライラして当たった。
「たまには車で買い物連れてってくれてもええやん!」
夜勤に備えて、いつも通りビールを飲む時間だったし、雨さえ降ってなければ、スーパーなんて自転車ですぐだ。
幸い雨も降っていない。
台所に食器や鍋が溜まっている。
朝早くに夫が自分でなんか作ったようだ。チッと舌打ちし、見て見ぬふりをした。
財布の中身を確認していると、飲み終えた夫が食器を洗いだした。
ありがとうは言えなかった。
そんくらいしてくれても全然いいし。
足りんくらいやし。など思った。
気持ちを整え、すり寄ってきた猫を撫でて出発した。
なんてこたぁない。
サラッとした安めのジャージを2本買って、一旦うちに戻り、ばーちゃん(母)の名前をシールに書いてアイロンで貼り付けた。もう慣れたものだ。
「アイロン熱いで。気ぃつけてよ」
夫に言い残して実家に向かう。
鼻歌混じりで中に入る。
「これな。またカバンに入れとくわな」
ステテコ姿のじーちゃんにそう言いながら、他になにかなかったか考える。
じーちゃんもじーちゃんで、
「なんか聞くことあったんやけどな」
お互い、最近よく忘れる。
頭の中があれもこれもでいっぱいなのだ。
そうして2人で頭を捻っていると、ばーちゃんがむっくりと起き上がった。
「トイレ……」
病院では寝たきりだったばーちゃんだが、介護ベッドの柵を握って、自分で起き上がれるようになった。
傍らに置いてあるポータブルトイレに移動しようとしているが、さすがにサポートが要る。
「お母ちゃん、またトイレか?」
じーちゃんが声をかける。
このトイレ、まぁこれがめちゃくちゃ頻繁なのだ。頻尿が過ぎるから、その薬も出してもらっているのだけど……。
私がサポートする。ちょっと支えればゆっくり動ける。
頻繁でさえなければなんでもない。
ただ、トレパンやズボン下、ズボンを上げるのに手こずってると、「早よして!」と言われる。これがどうにもたまらない。
「ごめんごめん」って笑って言える時もあれば、「そんな言わんとってよ!
一生懸命しよるのに!」となることもある。
今日は早よしてとは言われなかった。
「じーちゃん、銭湯は?」
「もうしんどいわ。明日ゆっくり行く」
留守番しなくていいようだ。
少しホッとする。
銭湯行かせてあげたかった気もする。
ばーちゃん、ご飯を食べていないようだったから、病院で出してもらっている総合栄養剤を飲ませてみる。
今日はいちご味のにしてみよう。
よく冷えている。
トイレを終えてベッドに戻っているばーちゃんにの口にストローを持って行く。そしたらまぁ、ズズズズズズーっと一気に飲んだ。
「すごいなばーちゃん。喉乾いとったん?」
「俺が飲ませたら飲まんのに。よかった」
栄養補給もできたし、じーちゃんも今日はもう出かけないと言うから、私も帰って休むことにした。
もう一度、明日のショートステイに持って行くカバンを確認。
「それ渡したらえんやな?」
「うん。これね」
「トイレ…」
ばーちゃんがまたむっくり起き上がった。
約4ヶ月ぶりにばーちゃんが帰って来た。戸惑うことばかりだし、じーちゃんは細かくて忙しないし、しんどいなぁと気が遠くなるけど、まだ始まったばかりだ。
ばーちゃんの思い、じーちゃんの思い、いろいろある。
一昨日まで、おっちゃん(兄)も帰って来てた。2年ぶりに旧家族が揃った。
その前4人が揃った時は14年ぶりだった。
家族に旧もシンもないけれど、嫁に行った身としては、自分のシン家族もあるわけで。
なんもできず悪いなとおっちゃんは帰って行ったけど、一人増えるとやはり楽だった。気持ち的にも。
おっちゃんが居る間にも、私とじーちゃんとで、ちょっとした言い方から小競り合いがあったりして、家族めんどくさいと思った。合わないとも思った。
ばーちゃんが上手く立てたりすると、みんなで喜び合って拍手したりした。
右手を動かせた時も。
言うこと聞いてくれないと腹が立った。
「危ないから言うとるんやろ!」
ベッドの柵を外せと言うのだ。
今日見たら柵は折り曲げられていた。
じーちゃんがそうしたのかな。
おっちゃんが2年ぶりに帰って来た日は、私の誕生日だった。
ぎこちない空気を破りたくて、
「今日誕生日誕生日!」
と自分を指差してアピールした。
みんな忘れていた。
じーちゃんは毎年覚えていて、いつもお小遣いをくれる。いい年の娘だが、じーちゃんの気持ちでもあるし受け取っている。普通に有難いし。
でも今年は忘れていて「しまった」と言う顔をしていた。
大丈夫よ、じーちゃん。
ばーちゃんのところへも行って、自分を指差し、同じことを言ってみた。
ばーちゃんは少し目を大きくして、よろよろと手をこちらに伸ばしてきた。
ばーちゃん!
「電気、消して……」
ズコッ!
覚えてるどころじゃなかった。
感動を準備して損したわ。
「トイレ…」
ばーちゃんがまたむっくり起き上がった。
再びエスコートして、それから実家をあとにした。
鼻歌交じりに自転車を漕ぐ。
松本隆の作詞はほんとに秀逸だ。
とどめの一行。
天才だ。
帰り際、じーちゃんが言った。
「またなんかあったら電話する」
しないで欲しいと思った。
せめて明日までは。