『六月、蝉の火葬』

もう六月の湿っぽい匂いなどとうに過ぎ去って五月蝿いくらいに蝉が、大声を張り上げていた。冷房の一つもかかっていない部屋でただソファに寝転び蒸し焼きになっている。
いつからだろうか。食べ物も飲み物も取っていない私の身体は先の方から腐ってきてしまっているように感じた。
と、いうのももう光を感じることしかできない両目と鉛のように重い動かすことのできない手足では確かめることさえ叶わない。
今は何月何日なのだろう、聞こえる騒音と眩しさから察するにもう七、八月なのかもしれない。きっととても暑いのだろう。
もう、それさえ感じられないのだ。ただ只管このまま終わりを待つだけ。と言っても効率厨の私にはただぼーっと終わりを待つことなんてできなかった。
溶けて腐りきった頭でもう何度夢で繰り返したかもわからないあの日を思い出す。私の生きる理由の全てが失われたあの日を。

たしかあの日は今日ほどでは無いだろうけど蒸し暑くて、まだ梅雨の真っ只中だったのでジメジメと雨が降っていた。
雨の粒がアスファルトを打つ音を嫌に鮮明に覚えている。
私と彼女は学校が終わり唐突に降られた雨に急ぎ足で私の家へと向かっていた。
学校からは私の家のほうが近いからとかそんな理由で傘も無かったので一旦雨宿りをすることにしたのだ。
もしあのとき、近くのカフェで雨宿りをしていこうと提案していたら。
もしあのとき、帰りの時間が何かでずれていたら。
もしあのとき、あの瞬間にあの横断歩道を待っていなければ。
そう、横断歩道を待っていたのだ。
それはただいつものように。
今日も裏庭に野良猫が遊びに来ていたね、なんて何気ない話をしていたと思う。彼女は雨に濡れて頬に張り付いた髪をケラケラと笑いながら耳にかけていた。
私よりも白い柔らかな手で。
そしたらトラックが角を曲がろうとしたのだ。トラック、は、酷くタイヤ、車輪が大きい。それに、何tもの鉄の塊に巻き込まれて仕舞えば人間なんてひとたまりもないのは誰でも分かっているのに。あまりにもその光景に慣れすぎてしまっていて危機感を感じられなくなってしまっていたのだ。
おかしい。いつもよりもずっとタイヤが近い。まずい。そう思ったときにはもう彼女は目の前から姿を消していた。
「ぁ、」
と、確かに声を残して。
私が愛した、この世の何よりも好きな音。彼女の声。
最後に聞いたそれは酷く掠れていた。
時間が止まってしまったのだと思った。
耳を劈くようなタイヤの擦れる音と周囲の人々の喧騒。
は、確かに聞こえたのだけど私の耳にはまるで届いていないようだった。
私の顔を、生暖かい彼女が伝った。
ツンと、鼻を刺激する愛おしい匂いに給食で食べたものがビシャビシャと地面に落ちた。
この世界は彼女を中心に回っているのかも知れない。と、本気でそう思った。
モノクロな世界に、綺麗な赤い色だけが映えていた。
彼女は、どこだ。
硬直したように全く動かない身体を無視して目線だけを彼女がいるであろう方向に向ける。
そこにいたのは彼女ではなかった。“ソレ”は所謂、肉団子と呼ばれるモノの様であった。
頭では分かっていた。
何よりもソレの中で目視できたのはあの白く細い腕が朱に染まったものだった。手首には去年の夏祭りでふざけて買った私とお揃いの安っぽいブレスレット。
それだけが酷く残酷な現実を私の頭に痛いくらいに叩きつけた。
その周囲にはあの薄く白い綺麗な腹の中に納められていたであろう臓物が散らばっていた。
あの場には私がいたのに。
私がいたはずなのに、何故守れなかったんだろう。
私が守ると、確かに誓ったのに。
何故、あちら側にいたのが自分では無かったんだろう。
あちら側にいて、巻き込まれるべきはたった一人の大切な人さえ守れない私だったんだろう。

外から聞こえる蝉の声は一週間ほどの命を終える直前なのだろうか、ひときわ大きな声で鳴いていた。

彼女の葬式には出席しなかった。どうしてもあの肉の塊が彼女だと受け入れることができなかったから。
色々面倒な手続き等は全部彼女の家族がやってくれた。
まあ、それは当然のことだった。
私と彼女は家族でも何でも無いのだから。
まだ、家族にすらなれていなかったのだから。
とっくの昔に枯れたと思っていた涙が頬を伝うのが分かった。

意識が途切れ途切れになる。

もう見えないはずの私の目の前には彼女が立っていた。
もう、仕方がないなぁ、といつものように笑っていた。

もう大丈夫なの。可哀想にあんなものに巻き込まれて、もう痛くはないの。
もうどこも苦しくないの。
何も辛くはないの?
今すぐに彼女を強く抱きしめたいのに全く身体が言うことをきかない。
早く、早く彼女をこの腕の中に納めてしまいたいのに。
二度と離したくないのに。
『もう泣かないで。いいよ、おいで。』
彼女のその言葉に嘘みたいに身体は軽くなった。
動き出したままのその足で彼女の近くへ走り強く強く抱きしめる。
彼女もまた私を抱きしめ返す。
やっと、やっとまたこの温もりに触れられた。

さっきまで気が狂ったように鳴いていた蝉の声は何も聞こえなくなっていた。

#短編小説

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