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朧な風景

この頃絵に関してちょっとお留守でした。本来は絵に関する記事を多くする予定でしたのでちょっとずつ頑張ってみたいと思います。見出しの絵も一連で実験的に描いている絵の流用ですが、私は常に描画の単純化ということを考えています。最終的な形がどうであれ、初期はそこから入れば無理がないと考えます。と同時に、物が見えると言うことの不思議を思います。

私が絵を描くようになった動機にはこの部分がかなり含まれます。凡そ見えるものは大抵の場合、朧で霞んだ状態から見えてきて徐々にはっきりしてくると考えることはとても自然なことだと思います。

もちろん現実はそうではありません。靄の立っている状態でなければ事物も世間もはっきり見えます。しかし記憶という点で考えればかなり朧気です。さらに、輪郭が鋭くて細かいものがいきなり目に飛び込んでくると大抵の人は拒絶感を持つのではないかと思います。現実に私は、あまりに細かく細密に描かれた絵が苦手です。これはしかし人によるでしょう。

私たちが世間を見渡した場合、短時間ではあまり細かい部分を覚えていません。最初に飛び込んでくる印象は大雑把な色と陰影です。細部は取りあえずの問題として、最初の大雑把な印象を表現してみようと試みるのは描画の入り口としても理にかなっているように思われます。

勿論絵は様々なので輪郭だけで描く人も存在します。一瞬で見えた全てを記憶する人の絵は、私が知る限り細かい線描で描く人が多いのではないでしょうか。そのようなタイプの人は遠近を逆に記憶する部分があったりするようで非常に興味深いです。しかしそれはここで述べたいことではありません。

描画のとっかかりとして輪郭からまず始めるのはごく普通にどこでも行われて一般的なことだと思います。しかしここでは逆を考えたいのです。世の中には朧気で輪郭がはっきりしないシーンが沢山あります。そう言うものは描かない--というのもひとつのスタイルではあるでしょうが、私にはそのようなシーンがとても魅力的なのです。透明水彩ならボカシを沢山使うのでかなりの共通部分があると思いますが、必ずしも同じと言うことではないと思います。

結果は二の次にして、ここでは輪郭から始めるのではなく、置かれた陰影が形を暗示するという種類の描画を考えています。必要ならそこから更に細部へ移行することも可能です。しかしなるべくなら細部にはあまり入れ込まず暗示に任された方が興味深いと感じています。

さらに、朧な状態では見る人によって想像するものが違ってきたりもします。それでは絵にならないと考える人も居られるでしょうが、私は逆に面白いと思っています。

この辺はなかなか私には表現が厄介で上手く言えないのですが、その練習には取りあえず単色が適していると思います。以前万年筆で抽象画っぽいのを描きましたが、あれも根は同じです。

思考をまとめるのは苦手ですのでいきなりな記事は書けませんが、少しずつ追加したいと思っています。

今のところは…。

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