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“生ききる”ということ、これこそが生きる目的

『生きている限りその生を全うする。すなわち“生ききる”ということ。これこそが生きる目的ではないだろうか。』

こんなことを、長い人生経験を経た現在しみじみ思います。口幅ったいようですが、これこそ最高の“知恵“と呼んでもいい気すらしています。


自己実現とか、成功願望とか若い頃は誰しもが抱くものだけど、
なんとしても成功したいとか、成功しなくてはとか、気負う必要は全くない。というのが現在の私の心境です。

一日一日を(自分に)誠実に、丁寧に生きていることだけで十分だと思っています。

具体的には次の三点を心がけるようになりました。
•他人の目を気にすることをやめる。
•判断、決断、選択する時には、決して損得感情で打算的に行動するのではなく、自分の直感に従うということ。心がほっこりするか、ストーンと迷いなく腑に落ちるかがポイント。
•否定的な言葉を決して使わない。

そして、今日一日でおこなったことの結果は気にせず、評価、反省もしない。
どんなにひどいことがあっても、特に感情をたかぶらせることもなく『あーそうなんだ』と思うだけで終わり。
だからってどうこう思い巡らすことなく、なぜこうなんだとか腹を立てたり、がっかりしたり、嘆いたりなど、いっさいあとを引きずらないことです。

目の前の一つ一つの出来事に、この態度で臨むということ。それの繰り返しこそが人生の本質だと気づくことこそが本物の「悟り」だという結論についに辿り着いたのです。


私たちは、どう頑張っても、足掻いてもこの人生での役目を終えたら自然と運命に強制終了させられるものと思っています。
例えばがんで治る治らないは、その治療法が合う合わない、正しい間違っているではなく、運命としてどちらかが決まっているという説を私は信じています。
だから、わたし自身手術も抗がん剤治療も絶対にしないでくれと家族に伝えてあります。

私流、悟りへの三段階
何もあがく必要はない


第一段階
これまでの心理学や精神世界の教えでは、最悪の事態に直面した時の対処法として「ポジティブ思考」が長らく説かれていたように思います。
「これはひどいことに見えているが実は視点を変えれば、あるいは長い目で見れば良いことなんだ」と、ある意味無理矢理に“思い込もう“とする努力が必要だという考えが主流だったようです。

第二段階
かと言ってもとっさに無意識のうちに快•不快を感じ取ってしまうことは、人間である以上むしろ自然かもしれません。
その際は、これまでのように無自覚に、なんとかこの不快さから逃れようとするための本能的な行動を取らないようにします。
すなわち不快で仕方ない自分の感情を第三者の目で自覚するだけに留めるのです。
できればその状況を“味わう”くらいの感覚になるのが理想です。


第三段階
いいこと、悪いこと、と反射的に分けることすらやめる。
ただひたすら目の前で起きることを「あーそうなんだ」と受け止めるだけに留めるのです。
すなわち感情移入したり、評価、判断を一切しないということです。


究極の悟り
困難な問題や試練に直面したとき、余分なことを一切考えず、あー自分は今「生きている」のだ!と自覚するのです。
なにしろあらゆるストレスフルな状況がいっさいなくなった状態とは、すなわち「死んでいる」と同義なのですから。
(長時間、光や音を始め、全く刺激のない空間に置くと精神が崩壊するという実験結果があります)

そして最終的には、すべて
『“あるがまま“にまかせる』という境地になることです。

これが釈迦の辿り着いた真の『悟り』で、すなわち『縁起』説からもたらされる極めてロジカルな帰結なのです。

「縁起とは、すべての事象(物や事)は物質としての実体はなく、それぞれの関係性としての絡み合いにすぎず、それが目に見えるものとしての錯覚を起こさせているだけである。」

これを体感できるまでに繰り返し意識づけすることが、究極のゴールと言えるのだと思います。

#悟り #釈迦 #生きる目的
#ポジティブ思考






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