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noteは小説より奇なり


小説に感じていたことと同じ感覚、すなわち“人間というものは、なんと‥‥”、をnoteの記事に対してしみじみ感じている。

それも全ての人が、なんと繊細な、心をもっていることか。
自分だけがこんなに考えすぎで、気にしすぎで、と思っていたが、どうやらそれは思い上がりだったようだ。

そして、衝撃だったのは全ての人が大変な才能を持っている…ということを発見したことです。
それは、文章表現能力であったり、会社生活における職務遂行スキルであったり、投資家としての専門知識であったり枚挙にいとまがない。


これまでは小説を読むことで自分以外の人間は、どのようなことを考えて生きているのだろうか、自分とは何が違うのだろうか、ということを知ることができた。

普段直接の知り合い、友人、そして家族でさえ、100%の本心をなかなか明かすことはないと思う。
そして、それが知れるほど深い話題などにそう踏み込むことすらない。
でも小説家はそこの領域にまで踏み込んだ人間の性(さが)をえぐり出してくれていると思う。
いや、小説家だって所詮人間だから100%明かすことはしないはず、というかもしれない。
ところが、“登場人物”という隠れ蓑(みの)を駆使し、その者に代弁させれば、それが、いとも容易くできてしまうだろう。

若い頃は、人間との関わりって、楽しいことを一緒にするくらいの動機でのことが多い。そして関係性に嫌気がさせば、簡単に立ち去ることができる。
唯一の例外として、結婚生活においては相手の本性を見せつけられる場面はしばしば訪れるかもしれない。
しかし、そこにおいてすら、さまざまな計算が働いて、本音が隠される可能性は多いにある。

そして、今、note を知ってからは、小説に次ぐ本音媒体としての意義を見いだしている。

条件としては、知り合いが読んで、自分と特定されることのない範囲の自己紹介で語り始めているクリエーターのものであることが前提であるけれど。

かつてのネット・サーフィンを経て、YouTube三昧(ざんまい)というコースを、多くの人が辿っているかもしれない。
私はこれらに加えて、ここまで語ってきた理由で「自分語り」系のnote 投稿記事を読むことにハマっている。






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