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大東亜戦争(第二次世界大戦)

「閲覧注意」

この記事は、第二次世界大戦の物語です。
一部に不快な表現を含むため
戦争に興味のないかたは閲覧しないでください。


第一部:大東亜戦争(第二次世界大戦)序文 

先の大戦で、かつての「戦闘員」は、
ほとんど鬼籍に入られている。
これらのエピソードは大戦に参加したパイロットと、
私の父(二人とも亡くなっている)
から伝え聞いた話を私は、
後世に伝える義務があると考えている。
もちろん、これらのエピソードは戦争のすべてを
語るものでは無く、ごく一部にすぎない。
しかし、私は「戦争の一面」という意味で、
ネットを通じて「語り部」として参加したい。

この記事をみて、不快に思われる方も
多いとおもうが、私は、反戦論・好戦論
をのべているのではなく、
「客観的立場の歴史の継承者」としての、
単なる「語り部」に過ぎない。
「月うさぎのブログ」や 「FACE BOOK」
では限界でありそれを今回、
note に投稿することとした。 

 

第二部:九九(きゅうきゅう)式艦上爆撃機 

第1章   零(れい)式(しき)艦上戦闘機(零戦(れいせん))と九九(きゅうきゅう)式艦上爆撃機(九九(きゅうきゅう)式艦爆

ゼロ戦という呼び名は、戦後の呼び名である。
戦時中は、アメリカが「ゼロ」とよび恐れたことから由来する。
戦時中は日本は敵国語を使わないという規律があり、
「零戦(れいせん)」とよんでいたようである。
当時の戦闘は、戦国時代からのしきたり
「攻撃は最大の防御である」を踏襲しており、
空戦能力・航続距離ともに優れた
世界一の戦闘機をつくりあげた。
機体の徹底的な軽量化をはかり、
旋回能力・航続距離を最優先とし、
防御能力は犠牲にしていた。
航続距離に関しては、機体下部にフックを取り付け、
増槽とよばれる予備燃料タンクをとりつけ、
タンク増槽内のガソリンがなくなった場合や、
空戦時には増槽を切り離し、
機体内のガソリンに切り替えるというもので、
これにより航続距離は飛躍的に向上した。
より遠くの敵艦まで、より早く攻撃すれば、
守る必要はない。 
これが後年の零戦の弱点となり、
グラマンF6Fヘルキャットの餌食となった一因である。
神風(しんぷう)特別攻撃機は、増槽のフックを改良して、
250キロ爆弾をつんだ。
還ることのない菊水作戦では、増槽は不要である。
戦闘機の役割は、本来は、敵戦闘機とのバトルや
爆撃機や艦隊の護衛が任務である。

九七式と九九式艦爆は、急降下爆撃で
高い成功率をあげているが、
これは、大戦初期には零戦が
敵戦闘機を駆逐したため、
爆撃に専念できた結果であろう。
艦爆は二人乗りで、前部座席は「操縦士兼爆撃手」、
後部座席は「見張り・通信・射撃」
が任務である。
射撃は、敵戦闘機が背部から攻撃してきた場合、
機銃で応戦すると聞いた。
ちなみに艦爆は「急降下爆撃」が任務であり、
艦攻は「水平爆撃」または「雷撃」
を使い分けたらしい。

第2章   艦爆搭乗員

 私の知る、艦爆の搭乗員Zは
大正11年の産まれと記憶している
戦闘記録の時期は不明であるが、
海戦に参戦し、空母の搭乗員である。
急降下爆撃時は怖くないという。
爆弾を積んでも、高高度から急降下するため、
加速されたスピードはすざましかったらしい。
戦意も高く、「それ、つっこめ~」
といった感じで爆撃したらしい。
爆弾を投下すると、一気に機体を引き起こし、
今度は上昇に転ずる。
その際に体内にかかる重力は、失神するほどのもので、
この重力は、前部・後部の差はなく
等しくかかってくる。
すなわち、艦爆の搭乗員は、
体力・技量・精神力ともに
並外れた能力が必要であった。
上昇に転じた際、重力に逆らうため、
機体のスピードは著しく低下する。
しかも、敵艦から砲火が
嵐のように襲い掛かってくる。
心理的にも一刻も早く離脱したいので、
精神的にあせりが生じる。
それほど敵艦隊の火力はすざましいもので、
米軍の防御能力は優れていたのであろう。
回避する場合、一直線に上昇しては、
砲火の餌食になりやすい。
ジグザグに飛行したり、横滑り運動をとりいれるため、
なお一層回避に時間がかかり、あせりが生じ、
「もっと速く飛べ」
と心の中で叫んだという。

ある海戦で、Zの搭乗する艦爆が、
護衛戦闘機に守られて出撃した。
まだ護衛戦闘機が十分に配備できていたのだから、
大戦末期ではなく、中期あたりと想定される。
敵空母の看板に爆撃成功後、
かなり上空まで回避した瞬間、
砲弾が機体の近くで炸裂した。
その砲弾のかけらが機体を突き破り
Zの脚につきささった。
頭や心臓部だったら即死である。
もし、操縦士にあたっていたら、
機体は操縦不能となり墜落する。
なんとか空母までたどりついて、
軍医の治療をうけたのだが、
なにせ空母のなかには本格的な
手術を施す場所は無い。
応急処置をして、駆逐艦で
内地に帰還させねばならない。
駆逐艦もそうそう帰国できないため、
海上で応急処置のまま放置されることとなる。
運よく帰国でき、内地の大病院で
手術はうけたものの、
砲弾のかけらは、処置のしようがないほどの手遅れであった。
こうなっては、もう戦線に復帰できない。
名誉の負傷兵として、生まれ故郷に還り、
その地で静養に明け暮れた。
そして故郷の地で終戦を迎えた。


第3章   その後の逸話 

戦後、旧海軍の集まりが定期的にあり、
Zは零戦の悲惨な結末を聞いた。
零戦の悲惨な結末は、神風特別攻撃隊のみでなく、
そこに至る戦況にも存在した。
零戦は空戦能力には優れているが、米軍は量で圧倒した。
一機に対し、必ずF6Fヘルキャットを
2機投入したのである。
真正面からつっこんだら、防御能力の低い零戦は、
一発被弾しただけで撃墜される。
片や、F6F は強大な防御力があり、
真正面に一発被弾した程度では撃墜できない。
そこで、零戦の作戦は、敵機前方で宙返りをして、
防御の無い敵機の操縦席に、斜め上から
射撃するという攻撃方法でしか戦いようがなかったのである。
その作戦は、零戦の空戦能力を
最大限に利用したものであり、
最初のうちは成功をおさめた。
しかし、量でまさる米軍は、
おとりのF6F と零戦を対戦させ、
零戦が宙返りをした瞬間、後方から追尾してきたF6Fが、
零戦の腹部を狙うというものである。
腹部には、眼もなく、横滑りなどの
回避運動は不可能であり、
しかも防御も弱い腹部に被弾しては、
ひとたまりもなく撃墜されてしまう。
そこはガソリンの貯蔵されている場所である。
一撃で爆発炎上し、操縦士はパラシュートで
逃げる暇もなく、機体とともに火葬されてしまうのである。

 

 第4章   特攻に対する私見

 記憶では2000年頃のドキュメンタリー小説
「零戦燃ゆ」であるが、大戦末期はすでに零戦は
時代遅れで、海軍の新鋭高性能戦闘機
「疾風(はやて)」が戦線に投入されていたという。
高速で旋回性能も零戦劣らず、防御力も強く、
F6Fヘルキャットの性能をはるかにしのいでいたようである。
尤も、米国は、さらに高速高性能の
F8Fベアキャットを投入することになるのであるが。
そして、疾風という新鋭戦闘機には、
ベテランパイロットが搭乗したようである。
大戦末期の特攻では、練習機でわずかな期間
訓練しただけの新米パイロットがあてがわれたようである。
パイロットの練度は低く、時代遅れの零戦に、
250キロ爆弾をつんでは、さらに低速となり、
艦砲射撃や護衛戦闘機の餌食である。
生き残ったのは、指揮官や新鋭戦闘機に搭乗したベテランであろう。
それでは国や愛する人を守ると願って、
散っていった若者は無駄死にであったのだろうか。
私はそうは思わない。
このきちがいじみた戦法に、米兵は恐怖し、
日本国民に対して恐れをなした。
それが、戦後の処理で、日本に対して
穏便な処置をとったため、戦後の平和が築かれたものと私は思う。
そしてGHQは戦後、日本民族を恐れ、
徹底した日本民族の弱体化をはかるのである。
しかし、結果的には彼らは命をかけて、
戦後の平和を築いた、そう思えるのである。

そして私は終戦記念日に「靖国に眠る英霊」
にむかい、黙とうするのである。

 

 第三部:父の大東亜戦争

 第1章:「赤紙」

 父は、大分の地主の長男として出生した。
文武両道で、珠算の腕は一流、運動は万能選手であった。
声楽では、旧制中学時代、九州大会で優勝した。
父は、祖父に東京の音楽学校に進学したいと願いでたが、
祖父は「農家の跡取り息子が農業を放棄し、
不良の道を選ぶなら勘当する」といわれ、自分の夢を断念した。
大東亜戦争は、すでにはじまっていたが、
赤紙(赤い葉書の召集令状)はなかなか来なかった。
父が地主の跡取り息子であったがゆえ、
内地の米作確保を優先したようである。

大東亜戦争は、大別して「北方戦線」と「南方戦線」である。

南方戦線は、世界一を誇る、精鋭の海軍が
加担したため有利とされた。
北方戦線(主として中国大陸)は陸軍の精鋭部隊を投入した。
当時の二大陸軍部隊は「鬼の関東軍」と
「勇猛果敢な九州連隊」である。
開戦当初は、南方戦線は、破竹の快進撃であつたことは、
歴史的に有名である。
一方、北方戦線は、多方面に拡大したため、
歩兵部隊はたえず消耗し、補充が続いた。
大東亜戦争の末期1943年には、戦力不足を補うため、
「学徒出陣」を動員した。
ここに至っては、「地主の跡取り息子」といえども、
召集せざるをえなかったのであろう。
父は大正11年(1922年)3月10日の生まれで、
1944年に赤紙がきたので、
22歳で召集されたことになる。
事前に適正検査があったようで、
父は眼鏡だったので、操縦士には向かない。
空軍ではなく、陸軍向きである。
射撃試験で満点の合格点を取得したので、
陸軍狙撃部隊配属に決定されたようである。
肉体・運動能力共に優れた「甲種合格」である。

よく映画などで、後年「狙撃兵」が樹上や岩陰にかくれ
「単独狙撃」するシーンがみかけられるが、
それは極めて少数であろう。
陸軍歩兵部隊の武器は、三八(さんぱち)式歩兵銃が主力である。
これは自動連発式でなく、
単発式ボルトアクションである。
歩兵部隊は、手持ちの弾丸を撃ち尽くすと、
腰にさした短剣を、銃の先端に装着し、槍となす。
号令は「着剣(ちゃっけん)」。
そして「突撃」の合図とともに、
最前線歩兵部隊全員が突撃し、相手陣内に躍り込み、
敵を銃剣で刺し殺す。
勿論、敵部隊は必死に応戦してくるため、
それを後方から援護するのが「狙撃部隊」の役割である。

 

 第2章:「戦闘の概要」

  第1節:「戦闘員と非戦闘員」

 陸空問わず、 戦闘も戦闘員だけでなく、
弾薬や食料を輸送する部隊が必要であり食料を
保管・調理する「食料係」・「炊事兵」も必要である。
各方面に情報を伝達する「通信兵」「通信係」。
そして 陸軍でいえば「野戦病院」といわれるところの、
後方で負傷兵を治療し救護する医師団・看護兵が必要不可欠である。
これらを含んで「非戦闘員」とよばれた。
実は、多くの「非戦闘員」が支えることにより
戦闘が成り立つわけである。

 
第2節:「戦地の概要」 

駐屯地には、戦闘員の宿舎と非戦闘員の宿舎は別であったが、
お互い親密な交流関係にあった。
兵士の1日は起床ラッパから始まり、就寝ラッパで終わる。
就寝場所は進軍中は野営であり、駐屯場所に戻れば駐屯地である。
駐屯地で起床ラッパが鳴れば、5分以内で全員
かけあし集合しなければならなかったという。
食事は、非戦闘員である炊事兵が用意するが、
3食全部茶碗1杯しか支給されない。
内地では食料不足から白米を食べる機会はほとんどなかったが、
戦時中は兵隊さんには最優先に白米が支給された。
行軍中は飯ごうで各自自分で飯を炊く。
駐屯地では、「朝のラジオ体操」「重装備装着徒歩」
「駆け足」「銃剣による剣術」「射撃訓練」などがあり、
茶碗1杯では足らない。
内地ではやった「ほんとにほんとにご苦労ね」の替え歌として、 

「いやじゃありませんか軍隊は、
金(かね)の茶碗に金(かね)の箸・仏さまでもあるまいに
一善飯とは情けなや・ほんとにほんとにご苦労ね」
という歌がはやったという。 

他方、南方戦線ではすでにゲリラ戦の
様相を呈しているところもあり、食料難で米の飯どころでなく、
最後には、草木やとかげなどを食料にしたという。 

訓練に欠かせないのは、標的である。
銃剣などは藁人形でよいが、射撃訓練には人体が使われたという。
ほとんどが捕虜である。
日本には古来から、武士は敗北すれば死という考えがあり、
また「生きて虜囚の辱めをうけず」という軍隊の規律があった。
捕虜を殺害するのは当たり前と考えるのは不思議ではない。
なぜ人体を使うかというと、
銃弾が目標にあたると「てごたええ」があり、
たとえば木などであるとその「手応え」が違うという。
人体特有の「てごたえ」があるらしい。
まず、首を日本刀で切り落とし、人体を柱にくくりつけ、
三八式歩兵銃の射撃訓練とし、
最後は機関銃掃射で人体は無残にもボロボロになったという。
兵士のほとんどは何も感じないのであるが、
気弱な兵士や一部のヒューマニストは命令に従えず、
鉄拳制裁、食事ぬき、最後には営倉と呼ばれる牢屋にぶちこまれた。
脱走するものもあり、見つかれば銃殺刑である。
戦争は理性が通用しない異常な世界である。

ラッパについて記述するが、一番勇ましいのは「突撃ラッパ」で
「マタクルテキヲ、ミナミナタオセ」と響きわたった。
ラッパ兵は、銃はもてない。
最前線で敵の銃弾をかわしながら、
ただラッパをふくという過酷な任務である。
新兵はそんな戦場におそれをなし、就寝時には涙する。
就寝ラッパは安らかに鳴り渡る。
「シンペイサンハ、カワイヨナ、マタネテナクノカヨ」

 

 第3章:「民間人との交流」

 満州王国と中国との境界線、いわゆる最前線
には駐屯地は存在しない。
駐屯地は前線から多少内側の比較的安全な地域に存在した。
駐屯地は満州王国として統治された場所であるため、
民間人と軍隊は基本的には友好関係にあるのだが、
反日組織も存在したようである。
従って、軍人と中国民間人は直接交流を行うことはなかったらしい。
軍隊には歌手などの慰問団が訪問したものだが、
大戦末期にはそのような余裕はなく、
与えられた自由時間は内地の家族への
便りを書くなどに使われていたようである。
中には尺八のような小型楽器を演奏して、皆を楽しませたようである。
父も唄で民謡を歌ったという。
音楽は戦場の殺伐とした気分を癒してくれるのは
戦国時代からの周知の事実ある。 

父の戦友は狙撃隊員だったが、一人食料班がいた。
中国内陸部は塩はとてつもなく貴重品である。
海から遠いため、岩塩を使用していたのだが、
生産量がきわめて少ないため、一般庶民はかなり
高額な値段で手にしたようである。
日本は海に囲まれて、当時は塩田もかなり存在し、
塩は有り余るほどあった。
食料班は食料庫の鍵を保管していた。
おそらく10キロ程度の小袋であろうが、
こっそり拝借して(ばれれば銃殺刑であるが)
自由外出時間に集まり、近くの農家を訪れた。
「ジャージャーメン」と言って塩を差し出すと、
農家の主人はにっこり微笑み、早速、家畜の豚を
1頭処分し、肉を細切れにした。
麺は自宅で製麺したものを大鍋でゆでた。
味噌は中国古来から伝わる黒っぽい味噌で、
かなり濃厚な味だったという。
私が少年時代に父がよくジャージャー麺を作ってくれたものだが、
日本の味で一番近いものが京都の赤だしだといっていた。
現在のジャージャン麺は、ラーメンの上に
肉みそあんを乗せるものだが、
中国のものは、大なべのなかで、
ゆであがった麺と具材をかき混ぜて炒めたという。
出来上がると、仲間と中国の農家の家族で宴会がはじまった。
それほど塩は貴重品だったということである。
無いものはいくら金をつもうが購えるものではない。
そのような交流をかさね、父の戦友と民間人との絆が深まったのである。
まあ、塩泥棒仲間と言ってしまえばそれだけの話ではあるが、
なかには非友好的な中国民間人を襲撃し、
暴行殺戮を行ったふとどきなグループもいたわけで、
それらに比べると大した罪では無いと思える。

ちなみに食料係は、終戦まで満州に残り行方不明、
他の戦友は全員戦死した。

 

 

第4章:「敵襲」

野営地では宿舎がいくつもあり、小隊ごとにまとまって就寝した。
宿舎はいくつかに分散されていた。
空襲時に1か所に固まっていると、
全滅の可能性があるからだ。
広い陣地に宿舎が点在していたので、
見張りは立てているものの、十分とは言い難い。
戦闘はなくても、厳しい訓練のせいか、
兵は就寝時には即座に寝込んでしまう。
ゲリラはその直後襲う。
機関銃座は射撃高さを調整できる。
上半身が起き上がった頭の高さに銃座を固定したのちに、
中国ゲリラ兵は日本語で叫ぶ。

「敵襲~。敵襲~。」

兵は敵襲に備えて、即座に戦闘態勢を整えねばならない。
一斉に起き上がったところに機関銃がさく裂する。
ほとんど頭を打ち抜かれて、1小隊全滅状態となる。
父の小隊が襲われたかどうかは聞いていないが、
瞬時に「異常事態」と判断できた者は、伏せたまま前進し、
銃のところまでいきつき、身構えたらしい。
その行動がスクランブル体制においても
できた者だけが生存できたようである。

 

第5章:「従軍慰安婦」

兵士は若い。性の処理も統括しなければ暴走する。
よく、韓国や北朝鮮で「従軍慰安婦問題」
が取りだたされているが、これは誤解であろう。
当時の陸軍は従軍慰安婦として、民間人女性を公募した。
「お国のために、兵士を慰めるため、働きなさい。」というものである。
朝鮮は「日韓併合」で統治されていたため、朝鮮人女性も公募された。
ただ、やはり女性である、いくらお国の為とはいえ、
不特定多数の男の性処理道具となるのは無理である。
貧困層の家庭の女子や婦人が応募したようである。
昔、貧農の子女が遊郭に身を売られたように、
親がそうさせた例もあるようである。 

当時、「従軍慰安婦」にはかなりの金額の支度金が用意され、
手当てもはんぱなものではなかったという。
ただ、戦後は貨幣価値が暴落したため、
当時の金は紙くずに変わった。 

性病と妊娠の防止のため、兵士には「鉄かぶと」
とよばれた「軍用コンドーム」が支給された。
慰安婦は頻繁に健康診断をうけ、丁重に扱われた。
 しかし、軍人の数に対して、慰安婦の数は絶大的に不足していたため、
順番待ちにかなりの日数を要し、多くは自分で処理していたようである。

以下、私見であるが、「従軍慰安婦問題」は
少なくとも朝鮮半島にはあてはまらない。
人民の反感を買う真似をしては、統治が難しくなる。
 「強制的に慰安婦にされ凌辱された」
とするのは考えづらいのである。

 

 第6章:「またも負けたか八連隊」

八連隊とは大阪人で組織された部隊である。

「泣く子もだまる鬼の関東軍」、「勇猛果敢な九州連隊」
としてこの2つが最強の精鋭部隊であることは、
以前に記述している。まさに百戦百勝、不利な状況になっても
勇猛果敢に突撃し、死をも恐れない攻撃に敵部隊は震え上がったという。
そのぶん兵士の消耗は激しかった。
連隊長は後部の安全地帯に位置し、護衛もつけられた。
突撃や撤退の命令を下すのは連隊長もしくはその戦闘の部隊長である。
精鋭部隊に撤退命令を下すことはなく、
「最後の一兵となりても戦え」という考えだったらしい。 

八連隊は浪花人の気質なのか、
「こりゃ~あきまへんわ」と思いきや、すかさず撤退命令が下ったという。もちろん、末端の二等兵から部隊長まで同じ考えである。
そんな八連隊を他の隊は
「またも負けたか八隊」と馬鹿にした。
侮辱的行為も受けたという。

しかし父はその大阪人に人間性を見出したという。
 いくら批判をうけようと預かった部下を無駄死に
させてはならないという考えを当時の軍隊で
貫きとおすのは勇気のあることだという。
いかにもヒューマニストらしい父の考えである。
私の考えはいささか異なる。
戦うときは戦い、引くべきときは引く、
いかにも大阪人らしい合理的な戦法だと思う。
いたずらに蛮勇をふるい無駄死にするよりは、
兵を残存させるほうが、次の戦闘に有利に展開できるはずである。
しかし指揮権は総大将にある。
総大将の命令に反することが可能であった
大阪第八連隊長は、その意思を貫き通すほどの
知力と権威を有していたのかもしれない。

 

第7章:「虐殺」

よく、「南京大虐殺」事件がとりだたされているが、
これは過大宣伝であることは間違いない。
第一犠牲者の数は過大すぎる。
進軍するにあたって、あまりにも残虐な行為をしては、
進軍もままならないであろう。
しかし、虐殺はかなりの確率であったということは父が証言している。
日本軍に統治された満州戦線でも、一部のふとどきな暴徒が、
一家を襲い、男子は瞬時に殺戮・婦女子は集団暴行後、
銃剣で刺殺するという惨たらしいものであったという。
ましてや、進軍中の軍隊である。
兵は殺気立ち、多くの民間人を、
暴行・殺戮したことはありうると父は語った。
しかし「南京大虐殺事件」は無い。
そこにあるのは「小規模な虐殺事件」である。 

『戦争にあっては、どこの国も民間人を
虐殺しているのは歴史的事実である。
日本軍だけが無かったという言は無理である。』 

余談であるが、中国は戦闘時でなくても
現代でも少数民族を虐殺していると中国歴史研究家のかたから伺った。

 

  

第8章:「撤退」 

第2次世界大戦も末期を迎え、3月10日、
東京大空襲にいたるまで戦局は悪化していた。
父は3月10日うまれだったので、上官から非国民扱いされ、
暴行も加えられた。
時期は不明だが、その時期を境に、軍部はアメリカとの本土決戦に備え、
精鋭部隊を本土に順次返還させた。
撤退の基本は、最強部隊を先陣とし、
次に強い部隊に「しんがり」をつとめさせるのが常道である。
しんがりは全員退却するまで、最後まで支援しなければならない。
先陣は、関東軍と九州連隊
しんがりも関東軍の残りと他の精鋭部隊が担当したようである。
ソ連参戦で、捕虜となり、シベリアおくりとなった多くは、
その部隊であったといわれている。
そして九州連隊の多くは生還できた。 

南方戦線では玉砕戦、本土決戦では、
神風(しんぷう)特別攻撃がますますさかんになっていた。

 

  

第9章:「北方戦線と南方戦線」 

北方戦線は「中国共産党軍」が相手である。
兵力は日本軍より劣り、火器も大したことない。
戦法も「突撃戦」で通用する。 
一方、南方戦線は「連合軍」が相手である。
連合軍の歩兵は「自動小銃」・機関銃も充実している。
戦車も高性能・火炎放射器まで装備できた。
ロケット砲まで登場している。
日本軍と比較して兵員動員数も圧倒的に有利である。
日本陸軍が突撃しても、圧倒的な火力の前では、ほとんどやられてしまう。つまり、中国大陸のような突撃戦法は通用しないのである。
それゆえ、南方の陸軍部隊は「ゲリラ戦」でしか戦いようがなかった。
ゲリラ戦では最終的な勝利は得られない。
連合軍の兵力・火力・補給能力・「制空権・制海権の確立」の状態では、
南方戦線に勝ち目はなかったのである。

 

      第10章:「あとがき」

 

これらの話は、父の体験として、私が大学生時代に伝え聞いたことです。
大東亜戦争の時代は、現代とは異なります。
当時の背景を私なりに記述すると、 

1.戦国時代の武家の思想と戦闘思考の継承

2.     軍国主義の信奉

3.子供時代から大人に至るまで、徹底した「軍事教育」

4.反戦思想家に対する過激な弾圧

5.徹底した報道管制

6.「となり組」と称するスパイ組織網

 現代は、戦後の平和が出発点です。
そして今は、情報化社会です。
ただ、現在も、新聞・テレビ・ネットを含め、
様々な情報が飛び通っています。
どの情報を採択するのか、それはあなたがたが決めるものなのですね。
私たち老兵は、単なる昔の歴史の語り部に過ぎないのですね。

これからの歴史はあなたがた若人が決めてください。

  

最後に父の言葉から一言

「力なくして愛する人は守れない」

  

     大東亜戦争 完

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