村上春樹病からいつ逃れられるのだろうか

 高校生の頃、世界の終わりとハードボイルドワンダーランドを読んだ。
 勉強はしなくなり、本を読むことに明け暮れて、自分が何者なのかよく考えることになった。
 村上春樹を読まなければ、得意の数学と科学、理系の大学に進んでいただろう。
 けれど僕は芸術系の大学を選んだ(お金がなくて行けなかったのだが)
 村上春樹のすすめのグレートギャツビーや、ニュークリアエイジを読んだり、ユングにハマったりした。
 自分の生活のクオリティを上げるために、質素な生活をした。
 今、僕はそこからようやく離れることができた。

 1980年代ならば、そういう質素な生活に救いを求めることができたであろう。
 しかし今は2020年代、そういう救いの価値観も変容を求められている。
 今救いなのは何だろう。自分のやりたいことをやる、好きなことやる、そういうものだと思う。
 今病んでいるのはなんだろう、やはりSNSだと思う。村上春樹はSNSを活用していない。ならばSNSの救いを描写することはできないであろう。
 ならば僕は、僕たちは自ら救いを見出さなくてはならない。

 村上春樹に熱を上げることはもうなくなった。
 けれど、初めて読んだ時の衝撃を求めてしまう。
 きっと今救いになるのは、承認欲求が満たされることだろう。
 小説家になろうの作品を読んでいると、何者でもない人がチートを見つけ、いろんな人からすごい!と呼ばれることだ。
 魔法科高校の劣等生が主にそれを描写していて、たくさん売れている。
 ならば作品に描写すると売れるのは、承認欲求を満たすことなのだろう。

 この世界は承認欲求を満たせない人たちばかりうろついている。
 だからこそ、作品の中にそれを求める。
 だが悲しいかな、承認欲求を満たしたとしても救われない。それは塩水と同じように、飲めば飲むほど喉が渇く。
 だとしたらそれは救いではないのかもしれない。
 次の救いは、なんだろう。
 僕が思うのは、宗教性、神話の再誕だと思う。再編ともいうだろうか。
 神は死んだ、とニーチェは言った。そこから憂鬱な世界が現れた。
 自分や社会よりも大いなるもの、それに意識を向けることが救いになるのではないかな、と思う。
 だがこの世界、神を信じることは難しい、感覚として得られないからだ。
 神無き世界を歩んでいるからこそ、そういうものを求めてしまう、科学信仰からの脱却。
 進撃の巨人を読むと思う、残酷な世界を見てそれをどうにかしろ、というメッセージ。

 だからこそ、僕は思う、こんな世界くだらないのだ、それはともかく美しいものだ、と。
 土地とつながること、人とつながること、神とつながること。
 ディスコミュニケーションだった村上春樹を超えて、本当のコミュニケーションをはかること。
 散歩して木や花にふれたり、住んでいる街の歴史を知ったり、心の内を曝け出すような会話をしたり、祈ったり。
 それは世界とつながることだ。

 結論を言えば、世界と繋がりを持つことが必要なのだと思う。
 僕たちは嘘の繋がりを持つ、SNS。
 それとは別の、本物の繋がりを持つ、それが必要になっていく。
 僕たちは、身振り手振り、声、体で繋がり合う、その本物のコミュニケーションを取り戻す、それが必要なのだと思う。
 進化のスピードで置いてけぼりにされた、色々な大事なものを拾い集めて、次の世界へ。
 そんな繋がり合う世界が生まれたらいいな、と思う。


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