見出し画像

偽善すら下手

コーヒーショップでモーニングを食べていると、近所のマンションに住んでいる年配の女性が店に入ってきた。
彼女は床を擦るようにして少しずつ進み、レジで注文をするというわけではなくそのまま席に座った。いつもそうしているのだろう。店員さんが慣れた様子で飲み物を席にもっていっている。

彼女の目がぼう、とこちらに向いたので私はぎくりとして顔ごとそらした。

あの人は私に気づいただろうか。私を覚えているだろうか。

悪いことをしたのではないのに、その女性を見かけると逃げたくなってしまう。
現に私は、味のしなくなったトーストを冷めたコーヒーで流し込んでそそくさと店を出た。

私が今のマンションに引っ越してから、よくその女性を見かけるようになった。
ヘルパーさんらしき女性と一緒のときもあったけれど、近所の喫茶店で一人でじっと座ってどこか一点を見ていた。
いつも同じツーピースを着て、白い髪を頭の上のほうで束ねているので、「あの人だ」とすぐに覚えた。

先月初めぐらいだっただろうか。
私はお昼に食べようと買ったパンを抱えて、日差しを避けながら自分のマンションへ急いでいた。
その数メートル先に、見覚えのある姿と歩き方の人が道の真ん中をゆっくりと進んでいるのがわかった。時々通る車がその人を大きく避けて行く。
私はその人を通り過ぎるとき、何か声をかけたほうがいいのかもしれない、でも迷惑がられたり逆に何か攻撃されたりするかも、怖い、あと本当は早く帰りたい…等ということを一瞬のうちに考えた。
すると、彼女のほうから「すいません」と声をかけてきた。
「すぐそこ、そこの建物まで連れてってもらえませんか」と。

彼女が指したのは、私が住んでいるところと目と鼻の先にあるマンションだった。
こんなに近所なんだったら、そりゃしょっちゅう見かけるわな。と納得しながら、彼女の手を引いて一緒にその建物まで向かう。
彼女の手はさらさらでひんやりしているけど、私は手のひらまでびちゃびちゃに汗をかいていた。
日差しが強くてぶっ倒れそうに暑い。すぐ目の前にある建物に全然着かない。彼女の少し饐えた匂いと、破れたインナーの袖が腕に引っかかっていているのに気づいてからはずっと前だけを見ながら話した。

ようやく着いたそのマンションはオートロックで、彼女は鍵を探してほしいという。首から下げていた先をずっと握っていたので「それは違いますか?」と言った。
それだった。

結局部屋まで送ることになり、部屋の鍵を開ける。
ここまできて、結構いいマンションだからお金待ってると思われるんじゃないか、他人に鍵まで渡して、私が悪い人間だったらどうするんだろう、道行く人にこんな風に頼んでいるのだろうか、と心配になった。

だけど、ドアを開くと、もう、完全に逃げ出したくなった。
彼女から発されていた匂いが濃くなり、きっと彼女一人では行き届かないのであろう部屋の状態が玄関から一目でわかった。
彼女は「部屋の奥に電気のスイッチを点けてほしい」という。
こわい、と思ってしまった。そこまでできない、と思った。
申し訳ないけど、靴を脱いでその部屋に上がることができない。
私が、軽度だけれど潔癖症の気があることを差し引いても、これは、無理だった。

私はとうとう「ごめんなさい、そろそろ行かなきゃいけなくて」と言い、彼女が部屋に入るのを見届けて、自分のマンションへ全速力で帰った。

部屋に帰ってから、いつもより念入りに、取り憑かれたように長い時間手を洗って、うがいをして、着替えて、買ってきたパンを食べる気がなくなり、その日は寝込んだ。彼女の部屋が何度も夢に出てきた。

良いことをしたなんてみじんも思わなかった。
むしろどうすればよかったんだろう思いがぐるぐると廻った。

彼女の部屋の状態を見て、生活を想像し、ショックを受けたのだ。
自分の将来も不安な今だから余計に。
パートナーと添い遂げるかどうかもわからない、そもそも結婚するかもわからない、子供ができたとして老後の世話をしてもらえるなんて期待もできない、なんの保証もない将来と、彼女の部屋の状態を勝手に重ねて見ていたのだ。すごく失礼なことだ。

あの日こんなことを感じた、という罪悪感と後ろめたさが、彼女に会うたび刺激される。
もう一度声をかけられるのをおそれて、私は今日も全速力で自分のマンションに逃げ帰ったのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?