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物語と生活

最近、意識的に活字を読むようにしている。
noteを始めるきっかけになった山椒魚さんが「俺は沢山読んでるよ」と言っていたので、まずは愚直に本を読むようにしてみた。今まで科学本や論文しか読んでこなかったので、特にエッセイとか小説を進んで読んでいる。あと、人の書いたnoteの記事も。

エッセイや小説を読んでみて思った。意外と読める!
中学の頃の破滅的な読解力からするとすごくマシになってる。
すごくワクワクしてる。良い兆しなんだと思う。

話が変わるが、最近Tempalayというバンドにハマっている。革命前夜っていう曲がメチャクチャ良い。マジで気持ち良ぉ〜くなるんすよ。聴いてほしい。

このバンドの演奏とか人となりが知りたくて動画を見漁っていたら、ジロッケンという番組内でGt./Vo.の小原綾斗さんが趣味の「ひとり映画」について語るシーンで凄く気になる言葉を残していた。

1番、客観視というか、自分の生活を覗かれてる気分になる。だって、映画って自分に置き換えないと共感しなくない?唯一、人の生活を覗き見できるものだし。

あまりにサラッと述べられているのだが、映画を通して自分の生活を覗き見られているという表現がとても引っ掛かった。「映画を観る」という行為において、観られる側は常に映画であり、観るのは常に自分。その構図しかイメージになかった。どういうことだ?

客観視=自分の生活を覗かれる
という構図が成り立つかのような言い方だ。

自分の脳みそを客観的に見るものの正体は自分であり、同時に映画(の表現するところ)である、という解釈をしたけど…
伝わってる?分からない時は、何回か音読してくれ。

自分の考え方や好き嫌いなどを作中の人物に重ね共感することにより客観視する。
そんな考え、したことなかった。
共感するって、そういう役割があるのか!
今まで、物語に触れる時「どういう事が起こったか?」にしか着目していなかったのかも知れない。作中人物の心情に着目することが出来なかった。人の気持ちを理解しようとしたことがなかったんだろう。
起こったことの羅列だけの物語なんて、空想世界の歴史年表と一緒なのにね。

物語は、様々な視点から読者に世界観を提供してくれる。それに対して、物語を体験した結果として共感を感じる。共感とは「相手の気持ちを理解出来る」だけでは不十分で「相手の気持ちを理解し内部に同様に再現出来る」という点にこそ意味の重心があるのかな。
きっと、小説を読んでも理解できなかった当時の私は、「相手の気持ちを理解する」という共感の初歩的ステップすら踏めていなかったような気がする。

最近の小説を面白いと思える私は、以前よりは日本語が出来るようになったのだと思っていたけれど、以前より共感できるポイントが増えたという事なのかもしれない。共感には物語が必要だ、って秋元康が言ってた。私は知らず知らずのうちに、物語を現実の生活の中に経験して、心に引っ掛かる共感のフックをたくさん準備してきたんだな。なんかちょっと安心したわ。

こんな事なら、もうちょっと早くからちゃんと小説とかに手を出しておけば良かった!でも、きっと私にとっては、これからの楽しみってことだよね。
慣れてないからものすごく時間かかると思うけど、読んだ本の読書感想文とかも書きたいな。

共感してくださったなら。